ゐるこの建物のなかであつた。
――面會に來る母の小さな姿を見るごとに古賀はいつも思ふのであつた。母はこの年になるまで生れた村を一歩も外に出たことのなかつた百姓女だ。それがこんどはじめて目に見えないある大きな力に押し流されてこの大都會に出て來たのだ。さうして自動車や電車の響に絶えず驚かされながら、世なれた人間でさへ脅やかされずにはゐないこの建物を訪ねてくる。そこではいかめしい鐵扉や荒々しい人々の言葉におどおどし、自分にはよめない西洋數字で書かれた面會札の番號をいくども側の人にたづね、――人々はその時あまりいい顏をしないだらう――その札を汗ばんだ手にしつかりと握りしめながら、そこの腰かけにちよこんと坐つて今か今かと呼び出しを待つてゐる、……古賀にはさうした母のめつきり白くなつた髮や、しよぼしよぼした目までが見えてくるのだ。時々母は塵紙のやうな藁半紙に鉛筆で一字一字刻みこんだやうな假名ばかりの手紙を書いてよこす。古賀は房の入口に近く立つて、房の外で無表情な言葉で話す役人にその手紙をよんでもらふのである。
公判までに古賀には尚一つ處理しておきたい問題があつた。妻の永井美佐子との關係である。
前へ
次へ
全59ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング