の修錬にもつぱらにすることによつて精神の統一をもはらかうと努力しはじめたのであつた。さうしてその試みは成功したといへる。こゝの建物の内部に自然にかもし出される、單調ななかにもあらゆる複雜な色合ひを持つた音の世界に深く心をひそめることによつて彼は次第に沈んだ落着きを取り戻してゆき、その後の古賀にとつては外界とは音の世界の異名にすぎないものとなつたのである。一つは現在の環境がかへつてさういふ試みに幸するところがあつたのであらう、その時からおよそ一年を經た、この物語をはじめた頃の古賀の耳や勘のするどさといふものは、ほんの昨日今日のめくらとはおもへないほどのものになつてゐた。われながらふしぎにおもふほど、鳥やけだものゝ世界はかくもあらうか、などと時にはふつとおもつても見るほどであつた。たとへば數多い役人の靴音を一々正確に聞きわけることができ、靴音が耳にはいると同時にそれと結びついた役人の顏や聲がすぐに記憶のなかにうかんでくる。――それは何も古賀に限つたことではない、少し長くこゝに住みなれた人間にとつては珍らしいことではないかも知れぬ、しかし古賀はそれ以上に、自分のところへ用事をもつてくる靴音を
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