死ぬことによつて人間はふたゝびその故郷へ歸つてゆくがゆゑに、それを導びく死といふものがかくも甘く考へられるのであらうか、などと時には思はれもするほどであつた。いつでも死ねる、といふ安心はしかし、半面には直ちに自殺を決行せしめない原因でもあつた。苦しみのなかにも安心を與へてくれるものとして死を考へることをよろこび、心は惹かれながらしかも容易にはそれに手をふれようともしないその氣持といふものを死と遊ぶとでもいふのであらうか。――自殺の一歩手前で生きてゐる人間は今日どこにでもゐる。唯、(原文五字缺)がそこまで墮ちなければならなかつた場合、事柄は嚴肅なものを含むでゐ、人の胸をうたずにはゐない。
 この眞暗な心の状態から古賀がすくはれ、やがて次第に落着きを取りもどして行つた、その楔機ともなつたところのものは、聽覺の修錬といふことであつた。分散した精神を統一するためにはたゞ漫然とあてもなく努力したとて無益であらう、といふことに氣づき、視覺を[#「視覺を」は底本では「視角を」]失つた不具者の自己防衞のためであらうか、丁度そのころ、耳が次第に異常な鋭敏さを加へつゝあることを自覺してゐた古賀は、心を聽覺
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