し、かうした場合、いつも過去の追憶であつた。こゝへ來る人々のすべてがさうなのではあらう、人々は生きた社會生活から隔離され、いきほひ色彩に富んだ過去の追憶の世界にのみ生きるやうに強ひられてゐるのであるから。古賀の場合はしかし、ほかの人々にも増してさうなるべき理由があつた。――彼は自分の短かいしかし複雜な過去の生活にからむあらゆる追憶を丹念にほじくりだし、ひとつひとつそれをなでまはし、舐め、しやぶり、餘すところないまでにして再たびそれを意識の底にしまひこむのであつた。さういふ彼の姿といふものは、いふならば玩具箱からときどき玩具を取出してたのしむ小兒の姿に似てゐたともいへよう。だがやがて彼は過去の世界にのみ生きてゐるやうな、そんな自分自身といふものをさげすむ心になつたのである。しかし生きてゐる人間が死の状態にまでつきおとされ、しかもなほ生きて行かねばならぬとしたならば、さういふ彼を支へてくれる何が一體ほかにあるであらう。苦《にが》い追憶も今はかへつて甘いものとなり、――過去の世界はその度ごとに新らしい感懷を伴つてなほも幾たびかよみがへつてくる。――
三年前の春のある事件以後、一時的に混亂に
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