いつて五圓あづかつたのでさつき差入れておきましたよ。今夜よそで逢ふとおもひますが、何か言傳てはありませんか?」
古賀の顏には瞬間ちらりと陰翳《かげ》がさし、複雜な表情が動いたかに見えた。が、それはすぐに消えた。もとの顏にかへつて彼は禮を言ひ、別になにもない、と答へた。永井美佐子といふのは古賀の別れた妻である。
房へ歸つてくると、暮れるに早いこのごろの日はすでに夕方であつた。からん、からんと、とほくで鐵板製の食器を投げるおとが聞える。雜役夫が忙しげに廊下を走りまはつてゐる。――やがて夕飯がすみ、窓の近くにひとしきり騷がしくさへづつてゐた雀のこゑも沈まつてゆくころには、もうすつかり夜にはいつたらしい。山の湖のやうな、しかし底になにか無氣味なものを孕んでゐる靜寂《しゞま》のなかで、寢るまへの二三時間古賀は自分の考へをまとめようと努力しはじめた。――
雲のやうにわきあがつてくる思ひのまへに彼はいくどか昏迷しては立ちどまり、自分の行手をふさぐ暗いかげの前におののいては立ちすくむのであつた。息苦しくなると彼は立上つてあるき出し、それからまた坐つた。なんとしても追ひがたくはらひがたいものはしか
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