た。じとじととみぞれが降り、寒さがぢーんと腹にまでこたへるやうな日であつた。古賀はただ一人の分離裁判であつた。彼はかねて母が入れてくれた綿入れを重ねて着、いつものやうに黒い眼鏡をかけ、重い手錠の手をひかれて裁判所の第一號法廷につゞく高い三階の階段をのぼつた。手錠をかけられる時、いつもよくしてくれる年老いた看守が、「どうも、規則だから、な」と、低く、つぶやくやうに言つたその言葉を彼はしみじみとした思ひで聞いたのである。
 古賀は陳述臺を前にして立つた。
「古賀良吉だね。」
 裁判長の聲を聞いて古賀は低く、はい、と答へた。――一瞬、その直前までかすかにうちふるへ、そわそわしてゐた彼の氣持は水のやうに澄んで行き、陳述の態度もその瞬間において決定したのである。一應の事實しらべがすんだ時、人の好ささうな裁判長(勿論古賀は聲でさう思つただけである)は、「被告は拘禁中、目をわるくしたさうだが氣の毒なことであつた」といつた。うがちすぎた想像ではあらうがそのあとにすぐつづけて、「被告の今日の心境は?」と尋ねたところから察すると、向ふからそのやうに進んで失明のことを言ひ出すことによつて古賀に自分の不幸について訴へる機會を與へ、いはゆる轉向を彼に語らしむるやうに仕向けたのかも知れない、それは不幸な古賀に對する裁判長の好意であつたのかも知れない、とも考へられるのであつた。しかし古賀は、「はい」と答へたまゝ彼の受けた不幸についてはつひに一言も言はなかつたのである。心境は? と問はれた時には、過去において(原文十二字缺)と思ふといひ、今日はすでに(原文三十四字缺)と答へたのであつた。行動の出來ない身で依然その思想を固持するとは被告らの理論體系からすれば矛盾ではないか? とつつこまれたのに對しては、(原文五十二字缺)古賀はそれらの答辯をかんたんに落ちついた低聲で答へ、そして公判は終つた。
 古賀の母はその日、やはり傍聽に來てゐた。あれが良吉かえ? あれが良吉かえ? といつて手錠編笠の姿で公判廷に這入つてくる古賀を不思議なものを見るやうに見つめながら、何度も何度も側の同志にきいてゐた。そしてあれが古賀にちがひないといふことを口ごもりながら、その同志が告げると、信じがたいと言つたふうにいつまでも小首をかしげてゐるのであつた。公判が終り、閉廷が宣言され、古賀がもう歸るのだと言ふことがわかると、その時ま
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