死ぬことによつて人間はふたゝびその故郷へ歸つてゆくがゆゑに、それを導びく死といふものがかくも甘く考へられるのであらうか、などと時には思はれもするほどであつた。いつでも死ねる、といふ安心はしかし、半面には直ちに自殺を決行せしめない原因でもあつた。苦しみのなかにも安心を與へてくれるものとして死を考へることをよろこび、心は惹かれながらしかも容易にはそれに手をふれようともしないその氣持といふものを死と遊ぶとでもいふのであらうか。――自殺の一歩手前で生きてゐる人間は今日どこにでもゐる。唯、(原文五字缺)がそこまで墮ちなければならなかつた場合、事柄は嚴肅なものを含むでゐ、人の胸をうたずにはゐない。
この眞暗な心の状態から古賀がすくはれ、やがて次第に落着きを取りもどして行つた、その楔機ともなつたところのものは、聽覺の修錬といふことであつた。分散した精神を統一するためにはたゞ漫然とあてもなく努力したとて無益であらう、といふことに氣づき、視覺を[#「視覺を」は底本では「視角を」]失つた不具者の自己防衞のためであらうか、丁度そのころ、耳が次第に異常な鋭敏さを加へつゝあることを自覺してゐた古賀は、心を聽覺の修錬にもつぱらにすることによつて精神の統一をもはらかうと努力しはじめたのであつた。さうしてその試みは成功したといへる。こゝの建物の内部に自然にかもし出される、單調ななかにもあらゆる複雜な色合ひを持つた音の世界に深く心をひそめることによつて彼は次第に沈んだ落着きを取り戻してゆき、その後の古賀にとつては外界とは音の世界の異名にすぎないものとなつたのである。一つは現在の環境がかへつてさういふ試みに幸するところがあつたのであらう、その時からおよそ一年を經た、この物語をはじめた頃の古賀の耳や勘のするどさといふものは、ほんの昨日今日のめくらとはおもへないほどのものになつてゐた。われながらふしぎにおもふほど、鳥やけだものゝ世界はかくもあらうか、などと時にはふつとおもつても見るほどであつた。たとへば數多い役人の靴音を一々正確に聞きわけることができ、靴音が耳にはいると同時にそれと結びついた役人の顏や聲がすぐに記憶のなかにうかんでくる。――それは何も古賀に限つたことではない、少し長くこゝに住みなれた人間にとつては珍らしいことではないかも知れぬ、しかし古賀はそれ以上に、自分のところへ用事をもつてくる靴音を
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