」に傍点]毛のほどもゆるさない事物の進行がほんたうの現實の姿であると、心魂に徹しておもひ知つたとき、古賀はおそろしい氣がした。さうして窓の彼方の赤煉瓦の建物のなかでは、着々として彼を處斷するための仕事が進行しつゝあるのである。
最初に古賀を襲つたものは發狂の恐怖であつた。今までは何ら心を惹かれることなく、むしろ醜いものゝやうにさへ思ひなしてゐたいろ/\な物體の形までが、今は玉のやうな圓滿な美しさをもつて彼の記憶の視覺によみがへつてくる。彼は房のなかにある土瓶や、湯呑みなどを引きよせ、冷たいその感觸をよろこびながらふつくらと圓みをもつたさうした器具の肌をなでまはし、飽くことを知らないのであつた。さうしてゐるあひだに、ほのかなその愛着は次第に力強いものとなり、つひには喰ひつきたいほどの愛着を感じて來、同時に一と度、あゝかうした物の形ももう二度とこの目に見ることはできないのか、といふことに思ひいたれば、たゞそれだけでもう狂はんばかりの心になるのであつた。單に生理的に見たゞけでも、五官中の最も大きな一つが失はれたゝめに、感覺をまとめる中心が戸まどひをしてゐる形で、思考も分裂してまとまりがつかず、精神状態は平衡を失つてゐた。さういふ下地があるうへに、過去において自分の知つてゐる二三の狂人の事どもがおもひいだされ、さういふ時に限つてまた頭は氣味のわるいほどにさえ/″\として來、彼らの場合と自分の場合とを一々こまかな點にいたるまでおもひくらべて見、はては自分もまた狂ふであらう、といふ豫期感情の前にをののくのであつた。古賀の精神状態はさうして一日々々暗澹たるものになつて行つた。茫然として一日をすごし夜になると、今日も亦どうにか無事にすんだのだな、と自分自身に言ひきかせてみるのであつた。――その頃の古賀にとつて何よりの誘惑は自殺であつた。死を唯一の避難所としてえらばなければならないほどに傷ついた人間にとつて、自殺がどんなに甘い幻想であるかといふことは、ものゝ本などで讀んだこともあつたが、古賀はいま自分の實感としてしみ/″\それを味はふことになつたのである。苦しみが耐へがたいものになつた時に、ひと度、いつでも死ねる、といふ考へにおもひいたれば心はなにか大きなものにをさめとられた時のやうな安らかさを感じて落着くのであつた。人間がそこから出て來た無始無終の世界といふものが死の背後にあり、
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