い廊下をそろ/\とあるいて來、房へ入ると彼はそこの茣《ござ》の上に兩手をついて崩れるやうに膝を折つた。あらあらしく扉のしまる音がし、役人と看病夫の跫音がとほのくにつれて、いまさらのやうに心をむしばむさびしさがわくやうなおもひであつた。あやふく泣かうとし、わづかに聲を呑むのであつた。しばらくはあらそはずその感傷のなかに身を浸し切り、古賀はぢつとうごかずにゐた。六ヶ月の刑期は病監にゐる間にすでに終つてゐたので、その時の古賀はあらためて未決囚となつてゐた。目の光りを失つてから病監で送つた一と月の生活がどんなものであつたかを、彼はいまだにはつきりおもひおこすことができない。今おもひかへしてみても、過去の生活の連續のなかゝらちやうどその間だけがぽつんと切りとられ、夢と現實との見境ひがつかぬやうなおもひがするのである。手近にあるものを取つては誰にともなく投げつけ、一週間ばかり半ば手の自由をうばはれてゐた記憶がある。長い紐状のものは牘鼻褌のはてにいたるまで一切とりあげられてしまつたことをおぼえてゐる。何日間か飯をくはずにゐて人々を手古摺らせたことをおぼえてゐる。きれぎれにさういふいろ/\なことをあとさきなしに記憶してゐるにすぎない。いはゞ當時の彼は半ばものぐるひに近いものであつたのであらう。古賀のあたらしい慘めな生活といふものは、だから、その一と月を經てふたゝびもとのところへ歸つて來たときからはじまつたといへる。うつろな心をいだいていま彼は手さぐりで暗の世界を彷徨しはじめた。――
 房の外では一と月まへとなんのかはりもなく、――いや、おそらくは古賀の生れない昔からこのとほりであつたらうとおもはれるほどに、平凡に、しかし少しの狂ひもない規律の正しさで物事が進行してゐるのであつた。刑の確定した被告は送られ、新らしい犯罪者がそれに入れかはる鍵と手錠のつめたい鐵のひゞきがひねもすきこえ、やがて夜になり、また朝が來、おなじことが毎日無限にくりかへされてゆく。
 古賀ひとりの身の上にどんな不幸が起らうが、そんなことはなんのかゝはりもないことなのだ。個人の幸不幸なんぞはみぢんにはねとばし、一つの巨大な齒車がおもいうなりごゑを立てゝまはつてゐるのである。古賀は蟲けらのやうな、棄て去られ、忘れ去られたみじめな自分自身を感じた。この冷酷な、夢幻をも哀訴をも、ましてあまえかゝることなどはうの[#「うの
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