安が、新たな強い力で今つきあげて來たのである。聲をあげて醫者を呼ばうとしたが、言葉がのどのへんでひつつつたまゝどうしても出ないのであつた。「眞實を知ることの恐ろしさ」がそれを拒んだのである。高い天井に電燈のともる頃には、泣き出したいやうな氣持にさへなり、夜ふけて田圃をぶるぶるふるへながらあるいた子供の時の心がよみがへつてくるのであつた。強い睡眠藥のたすけをかりてうとうとと眠りにはいりながら、「風呂で顏を洗ふなよ、風呂で顏を洗ふなよ、」と、入浴の時、ときどき注意してゐた浴場擔當のこゑを、古賀はぼんやり夢のなかで聞いてゐた……。
 朝、とおもはれる時刻に古賀は目をさました。
 目のまへは、うすぼんやりとくらいのである。
 古賀はおもはず目の上のガーゼをかきむしつて取つてしまつた。しかし暗さはおなじことであつた。
「先生。」
 と、古賀はどなつた。しかし、返事はなかつた。
「看病夫さん。」
 と、彼はふたたびどなつてみた。しかし誰も答へるものはない。
 枕もとに近い廊下では、朝のいとなみとおもはれるもの音がもう忙はしげにきこえてゐるのである。古賀はぞつとして恐怖におそはれて寢臺の上にガバとはね起きると、大聲で何ごとかをわめき立てた。
「興奮するな、興奮するな、」と、そのときすぐ近くにゐたらしい聞きおぼえのある看病夫のこゑが走つて來て、しつかと古賀をおさへつけてしまつた。
 すべてはその時もう終つてゐたのである。おそるべき病菌がほんの一夜のうちに、古賀の兩眼の角膜をとろ/\と溶かすがごとくに破壞し去つてしまつたのである。
 一切の事實をそれと悟つたとき、古賀の頭腦、古賀のからだぢゆうの全神經は、瞬間あらゆる活動を停止してしまつた。やがてわれにかへつたとき、彼ははじめてしめつけられるやうな聲をはなつて號泣したのである。大聲をはなつて泣き、その聲が自分自身の耳朶をするどく打つあひだだけ、眞暗な恐怖と絶望の世界からわづかに逃れうるものゝごとくに感じたのである。彼は夜に入つてもなほ泣いてゐた。病監の扉をもれ、しんかんとした彼の病舍の長い廊下の壁にひゞき高く低く彼のむせぶやうな泣聲がよつぴてきこえてゐた……

 およそ一と月餘りを病監におくり、見るかげもなく痩せおとろへた古賀がもとの房へ歸つて來たのは秋風がもうさむざむと肌にしみる頃ほひであつた。黒い眼鏡をかけ、看病夫に手をひかれて長
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