あつた。陸湯《おかゆ》のでる鐵管の栓をひねつてみたが、もう一滴の湯もでなかつた。水も――連日の日でりで貯水タンクも空なのであらう、そのタンクから引いてゐる水もすつかり涸れてゐた。そこで古賀は湯ぶねのなかで、身體もそれから顏まで湯をひたした手ぬぐひでごしごしと洗つた。汗もは吹でものゝのやうに顏にまでひろがつてゐたからである。それがすむかすまないうちにバタンと音がして浴場の扉があく。出ろ、といふ合圖である。からだをぬぐふひまもなく、作業衣を肩にひつかけて房へかへり、みると、ひとの垢か自分の垢か、うるけたやうな白いものが胸や腕のあたりにくつついてゐるのであつた。
 それが、その日の正午すこし前のことであつた。
 そしてその夜、うす暗い電燈の下で夜業にとりかゝつた頃から、古賀は兩眼の眼瞼のうちがはが、なんとなく熱つぽく痛がゆくなつてくるのをかんじたのである。だが、さして意にもとめなかつた。といふのは、春から夏にかけて結膜炎を病むといふことは、塵つぽいなかで目の過勞を強ひられてゐるこゝでの作業生活にあつては珍らしいことではないらしく、古賀も亦かなり以前から病んでをり、さし藥をもらつてゐたのであるが、榮養の關係もあつたものであらう、なかなかなほり切らずにその時まで持ち越してゐたからである。夜業はことにさういふ目にはこたへた。朝は目やにで目をあけるのに苦しむこともあるほどであつた。さういふ古賀であつたから、その夜すこしぐらゐの異物感を目のなかに感じたとしても大したことにはおもはなかつたのである。夜寢てから、半ばは夢のなかで、熱をもつた兩方の目をなんどとなく手の甲でこすりこすりしたことを古賀は今でもおぼえてゐる。
 翌朝起きてみると全身がけだるく、暑さのせゐばかりではない、たしかに熱があると感じられるのであつた。眼瞼はずつと腫れあがつてゐて痛みもひどかつた。手をやつてみると、耳の下の方の淋巴腺がやはり腫れてふくれあがつてゐた。黄色い、目脂のもつとやはらかいやうなものがぬぐつてもとめどなく流れでるのであつた。膿汁ではあるまいか? と疑つたとき、古賀の漠然とした不安はみるみる大きなものになつて行つたのである。彼は報知機をおろし、醫者をたのんだ。
 かなり暇どつてから來た若い醫者は、「どうした?」といひながら、無雜作に古賀の眼瞼を指でつまみあげると、ぐつとそれをひつくりかへしてみた。と、
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