いつて五圓あづかつたのでさつき差入れておきましたよ。今夜よそで逢ふとおもひますが、何か言傳てはありませんか?」
古賀の顏には瞬間ちらりと陰翳《かげ》がさし、複雜な表情が動いたかに見えた。が、それはすぐに消えた。もとの顏にかへつて彼は禮を言ひ、別になにもない、と答へた。永井美佐子といふのは古賀の別れた妻である。
房へ歸つてくると、暮れるに早いこのごろの日はすでに夕方であつた。からん、からんと、とほくで鐵板製の食器を投げるおとが聞える。雜役夫が忙しげに廊下を走りまはつてゐる。――やがて夕飯がすみ、窓の近くにひとしきり騷がしくさへづつてゐた雀のこゑも沈まつてゆくころには、もうすつかり夜にはいつたらしい。山の湖のやうな、しかし底になにか無氣味なものを孕んでゐる靜寂《しゞま》のなかで、寢るまへの二三時間古賀は自分の考へをまとめようと努力しはじめた。――
雲のやうにわきあがつてくる思ひのまへに彼はいくどか昏迷しては立ちどまり、自分の行手をふさぐ暗いかげの前におののいては立ちすくむのであつた。息苦しくなると彼は立上つてあるき出し、それからまた坐つた。なんとしても追ひがたくはらひがたいものはしかし、かうした場合、いつも過去の追憶であつた。こゝへ來る人々のすべてがさうなのではあらう、人々は生きた社會生活から隔離され、いきほひ色彩に富んだ過去の追憶の世界にのみ生きるやうに強ひられてゐるのであるから。古賀の場合はしかし、ほかの人々にも増してさうなるべき理由があつた。――彼は自分の短かいしかし複雜な過去の生活にからむあらゆる追憶を丹念にほじくりだし、ひとつひとつそれをなでまはし、舐め、しやぶり、餘すところないまでにして再たびそれを意識の底にしまひこむのであつた。さういふ彼の姿といふものは、いふならば玩具箱からときどき玩具を取出してたのしむ小兒の姿に似てゐたともいへよう。だがやがて彼は過去の世界にのみ生きてゐるやうな、そんな自分自身といふものをさげすむ心になつたのである。しかし生きてゐる人間が死の状態にまでつきおとされ、しかもなほ生きて行かねばならぬとしたならば、さういふ彼を支へてくれる何が一體ほかにあるであらう。苦《にが》い追憶も今はかへつて甘いものとなり、――過去の世界はその度ごとに新らしい感懷を伴つてなほも幾たびかよみがへつてくる。――
三年前の春のある事件以後、一時的に混亂に
前へ
次へ
全30ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング