は立ち上り、ずり落ちた洋袴を引きあげしつかと革帶をしめ、帽子を眞深にかぶり、あわただしく階段を下りて外へ出て行つた。――
 最後に殘つたのは小泉と杉村とであつた。
「今晩は?」と小泉が内かくしから何か小さく折りたたんだ紙をとり出し、杉村に手渡しながら訊いた。
「うん、九時から支部長會議をやることになつてゐる、」と杉村は答へ、受けとつたものを靴下のなかにおしこみながら、ここ一週間逢はなかつた小泉の顏をすぐ眼の前にしげしげと見た。かうしてまぢかに見ると、線の深く刻みこまれた顏だけにさすがに疲勞のあとが色濃くあらはれ、彼の心勞をなしてゐるものの何であるかが一目で知れるのある。二人は彼らだけで話し合はなければならぬ事柄について簡潔な二三の言葉をかはした。押しあひ、ひしめきながら奔騰してくるものをうちに感じながら、杉村は辛うじてそれを咽喉のあたりでせきとめた。個人的には小泉と自分とによつて代表され、――しかしそれはもとより彼ら二人のものではなく、一つの組織のものである、意見、方針にたいする不滿と非難とを思ひつめた言葉でいひ現さうとしたのである。それは從來とても漠然とした形で杉村の内部に芽生えてゐた、今その方針の明かな失敗を語る事實を見るに及んでそのものはにはかにはつきりとした形をとるにいたつたのである。だがそれを言葉にして投げつけることを許しはしない冷然たるものを小泉の顏に杉村は見た。彼は眉一つ動かさうとはせぬ。(奴はまた強引に押し切らうつていふんだ!)小泉は何らの相剋するものを自分の内部に感じてはゐないのであらうか? 敗けたこと自體は問題ではない、ただそれがもたらす影響が一つのおそるべき方向をとつて來るときは……
 突然ある不吉な考へが芽生え、それはみるみる大きなものになつて行くのであつた。小泉はもう杉村の存在は忘れたもののやうに手帳をひろげ何か心覺えを書いてゐる。
「ぢやあ、」といつて杉村は立ち上り、階段のところまで行つてちらりと小泉の方を見た。何か心惹かるるものがあつたのである。下へ下りてみると留守居の青年が前後不覺に眠つてゐる。外は暗く風が吹き荒んでゐた。自轉車を走らせ半町ほど行つてふりかへると、高臺の家はちやうど灯りを消したところであつた。

 表戸をあけ、土間を見ると足の入れ場のないほどの履物である。これは意外だつた。時刻は遲いし、今日の集りは半分投げてゐたのにと思ひ、大西がうまくやつてくれたのだなと思ふと、たのもしくありがたい氣持だつた。自轉車を狹い土間に引き込み、ゴトゴト音をさせてゐると、二階から下りてくる音がし、中程に足をとめて、「誰あれ?」と上からもれる明りにすかして見てゐるやうであつたが、僕、といふと、ああ、杉村さん、と大西が下りて來た。
「御苦勞さん、みんな集つた?」といつて段にのぼらうとする杉村にパツと飛びつくやうにしてその手をしつかりとおさへると、ものをもいはず、ぐんぐんもとの入口の暗がりの方へ引つぱつて行くのである。どうしたんだ。どうしたんだ、といひながら杉村はついて行つた。
「杉村さん、敗けたんだつてね。」と低いささやくやうな、しかしひた押しに感情をおし殺さうと焦つてゐる聲である。
「敗けたよ、仕方がない、それで……」
「弱つたなあ、杉村さん、」
「ええ?」といつて杉村はなんといふことなしにどきんとした。
「組合は割れるね、わるくすると。」
「なんだつて、」
「まるで沸いてるんだ、二階の連中は! 一杯機嫌でやつて來るのが多くつてねえ、すつかり不貞腐れてゐるんだ。だからいはんこつちやない、土地のものをナメやがつて選擧なんかに勝ててたまるもんかい、ざまア見ろつて惡口雜言さ。敗けたのを口惜しがつてゐるどころか痛快がつてゐるんだ。むしやくしや腹をどこにも持つて行きどころがないもんでわしひとりにつつかゝつて來る始末さ。今晩の會議なんてとてもものにやなりませんよ。先生は顏を出さない方がいいかも知れない。やつぱり失敗だつたかなあ、杉村さん、地元から立てずに島田さんを立てたのは……」
「默れ! 餘計なことをいふな。」といきなり杉村は呶鳴つた。意外な彼の興奮におどろいて大西は口をつぐんでしまつた。
 その暗闇のなかにだが杉村は顏いろを變へたのである。おそれてゐた不安がこれほどまでに早く現實のものとして迫つた來ようとは思はなかつた。あたりはしーんとし、耳を澄まして聞くまでもなく、二階で何かののしり笑ひさざめいてゐる聲は明らかにいつもとはちがふのである。……杉村は逡巡した。がすぐ氣を取りなほし、今來た、といつた氣輕さをよそほつてとんとんと階段をのぼつて行つた。うしろで大西が何かあわただしく小聲でささやいたやうである。
「やあ、失敬々々、すつかりおくれつちまつて。」
 と障子をあけるなり杉村はいひ、わざと無雜作にそこに鞄を投げ出した。何ごともなかつたふうに平氣をよそほひ、何ごとにもこだはらぬ態度を全身をもつて示してゐるのだが、顏の筋肉が硬ばり、へんにゆがむのをどうすることもできなかつた。
 障子をあけた瞬間になかでの話はひたと止んだ。杉村はそこへ坐つたが誰もものをいひかけて來るものはない。廣くはない部屋に膝をつき合して向ひながら、一口もいひ出すもののないほどの氣づまりはない。おそろしい暗默の敵意である。どつちか先に口を切つた方が敗けであるやうな沈默の抗爭である。――杉村が敗けた。
「今日は馬鹿に集まりがいいね。……今晩は會議の形式はとらずに選擧の結果についてお互ひに意見を述べあひ、今後の對策について相談しあはうぢやないか。敗けたものはまア仕方がないとして。」
 いひながら刺すやうな多くの視線をからだ一杯に感じ、それまでうつむいてゐた杉村はそのときはじめて顏をあげて一點を見た。かつちり視線の合つたのが、ほぼ正面に坐つて、臆することなく眞直ぐこつちに顏を向けてゐる石川剛造であらうとは! 勝利と侮蔑と嘲笑と憎惡との錯雜にゆがんだ表情は、復讐の快さのうちにふしぎな統一を見出してゐる。杉村は今はとめどもなくべらべらとしやべり出すことでおのれの氣弱さを蔽はねばならなかつた。だがそれに應じてくるものは一人もなく、しかし彼らは彼らだけの言葉と表情で勝手にしやべり始めたのである。――
「まるまる一ヶ月まで阿呆な暇だれをしてしまうたのう。」
 ほーつと肩でする思はせぶりな太い息と共に吐き出したのは、組合の政治部員と黨の幹部を兼ね、今度の選擧には辯士隊の一人であつた山田三次である。
「山田なんざあまだいいわ。もともと口が達者で演説が飯より好きに出來とる男ぢやてのう。今度といふ今度こそはしつかとたんのう[#「たんのう」に傍点]するまでしやべつたやらうに。第一やることがはでぢやわ。――わしを見んかい、わしを! 一日ぢう机の前に坐らせられてよ。鋤鍬持つ手に筆を持つてよ。飯代がいくら、人夫賃がいくら、紙がいくら、墨がいくら、何がいくらかにがいくらと帳面つけぢや。それがてんでお日さんにも當らずとまるまる一ヶ月ぢや。毎日歸るじぶんにや、足が痺れて棒のやうやつたわ。それでも勝てるか思へばせいも出た、敗けたんぢやつまらん。」
 選擧事務員であつた川上直吉がさういひすててごろりと横になつた。
「まあ、さういふな川上、お前の手蹟《て》のいいのを見込まれたのが因果ぢやと思へ。百姓にやもつたいない手蹟ぢやけに。」
「ほめてもらうておほきに。」と川上は笑つた。
「日當は帳面の上だけの事やて一文にもなりやへんし、選擧にや敗けるし、――あーあ、ほんまにおれも田中みたいに政友會の辯士さやとはれてしこたまもらへばよかつた。こななことになるんやつたら、裏切者になつたかてそれが何ぢやい!」
 最後の捨鉢的な一句には、ふざけたなかにへんに眞に迫つたものがあり、みんな何かを考へさせられた面持である。
 ひとり完全に取り殘されたかたちの杉村は、持つて行きどころのない眼を部屋の片隅にうつした。と、彼はそこに意外なあるものを見てにはかにけはしい面持に變つたのである。そこの瀬戸の火鉢には藥罐がかけられ、今はじめてそれと氣づいたのだが、田舍によく見る口の平べつたく大きな三合入りの銚子がその中につけてあつた。しんしんと鳴つて湯はたぎり、なかの銚子がゴトゴトと低い音をたててゐる。部屋へはいるとすぐに鼻をついた酒の匂ひは、彼らが外から持つて來たもののほかに内からのものがあつたのである。事務所備付けの湯呑みがそのあたりに亂れ、もういいかげん色づいた三四人が火鉢を圍んでゐる。
「君、そりやどうしたんだ!」
 思ひもかけなかつた事柄が人々と杉村とを相語らしむるきつかけとなつた、はげしくいつてしまつたあとで、杉村はさういふ自分の不幸を思つたが遲かつた。暗默の敵意はこの偶然のつまらない事柄をなかだちに、今は公然のあらはなものになつて了つたのである。
「組合の事務所で酒をのむことだけはうやめたらどうかね、ええ、君、事務所でだけはお互ひにだらしのないまねはしたくないんだ。一般組合員にたいする影響も考へなくちやならないからね。事務所で何か祝ひ事でもした時はそりや別だ。しかし今日はみんな會議に集まつたんぢやないか。」
「ああ、ああ、わかつとりまさあね、そななことあんたにいはれんかて。」
 憎々しげにそのうちの一人がいひ放つた。顎をつき出しうすら笑ひをさへうかべて。何といふ不貞腐れかげんであらう。杉村はさすがに周章し、狼狽した。從順な飼犬がたちまち牙をむき出すのに逢つたおどろきであつた。
「わしらは今日は何も會議に集まつたんぢやありません。祝ひ事に集まつたのやよつて一杯くんどるんぢや。」
「祝ひ事?」
「さうや、」
 にやりと笑ひ、氣を持たせるやうにちよつと間をおき、
「組合の解散祝や。」
 とずばりといつてのけ、そしてくつくつと聲をたてて笑ふのであつた。
 一座の冷やかな視線のなかに杉村は蒼くなつた。親愛な仲間はいつの間に忽然としてこの惡意に滿ちた敵に變つたものであらう……おちつかねばならぬと杉村は思つた。興奮してはぶちこはしである。何事を追求してみる要もない。今晩のこの集會は流してしまはう。選擧については觸れず、しばらくはこのままそつとしておくのほかはない……しかし彼のその意志に反して向うが切り込んで來たのである。
「杉村君、」とそのとき山田三次がいつた。何か改つてものをいふ時には君《くん》づけにし、標準語でものをいふのがかつて巡査であつたことのあるこの男の癖である。
「選擧の結果について意見を述べあふやう、あんたはさつきいひなすつたが、あんた自身こんどの選擧の慘敗の原因は一體どこにあると思ふかね?」
「そりや、いろいろな原因はあるが……」
「ふん、いろいろな原因はあるが、その第一は(原文五字缺)でつぎは大衆の無自覺か。相變らずね。杉村君、君らはふだん自己批判々々々々て口癖のやうにいつとるが、結局自分に痛くないやうな批判しかやらうとはしないんだ。今度の選擧の慘敗の原因だつて、今となつては君らにもちやんと氣づいてゐる筈だ、それを知つてゐながら、以前にいつた言葉の手前、率直に認めるほどの勇氣がないんだ。敗けた原因はほかにはない、そもそもの出發點にあるのさ。島田信介を候補者に立てたといふ點にあるのさ。島田信介だなんて、そりや黨の幹部でもあり、えらい人間でもあらう、けど君、ありや全くの他國人ぢやないか。島田はこの縣に何のゆかりがある? この地方の人間と何の馴染がある? そんな人間を立てたかて勝つ見込みのないのは最初からわかつとる。だからわしらここにゐるものの大半はそれに反對したんだ。そしてあくまでも土地のものを立てることを主張し、この地區のみならず、縣全體としてももつとも古い農民運動の功勞者として石川剛造君を推薦したんだ。」そこで彼はちらりと横目ですぐ側の石川剛造の顏を盜み見た。石川は依然身動きもせずぢつとこつちを見つめてゐる。「それを君らが日和見主義だとか、當選第一主義だとかなんとかいつて反對してさ、阿呆らしい、當選を目的にしない選擧運動がどこにありますかい。そして書記會議で何から何までお膳立てをして中央委員を
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