かと思ふともう場馴れたふうでずんずんと便所の方へ――杉村のゐる方へあるいて來た。彈力のある精悍な身のこなしに何かあるなととつさに心に身がまへると、すれちがひさまに、
「共産黨狩りだ。」
と低く一言だけいつた。低くしかし鋭い聲だつた。
はつと思ふともうはげしく動悸が來た。それは部屋へはいつたのちまでも容易にはとどまらなかつた。度を失つた狼狽にしばらくぼんやりしてゐたが、急に聲をあげてはつはつと嗤つてやりたかつた。自分をあざける笑ひをである。知らぬが佛とはいへなんと心のどかにこの十日間を暮して來たものであらう。おそろしい陷穽がその間にも着々と準備されつゝあつたのを知らずに。杉村はとらへられた當初から今が今まで事柄の性質をきはめて簡單に考へてゐた。選擧後の大衆運動をふせぐための豫備檢束にすぎないとしてゐたのである。それは餘りにも自明であり、思ひなほして見ることすらもなかつた。だが今の小泉の一言は? ほかの誰がそれを聞いても平氣でゐることができたであらう。だが小泉と杉村の二人だけは平氣では居れぬわけがあつた。事柄は重大なものを含んでゐるのである。
ふとあることに思ひ當つて杉村は青くなつた
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