かつた。何ヶ月前かにもこゝへ來て、見覺えのある壁の落書を見てゐると、過去と現在と將來の見透しが走馬燈のやうに腦裡をかけ巡つた。何度來てもそれはその度毎のことで、慣れ切るといふことは出來ないものとおもはれる。しかし時が經ち、夕飯を終へて灯りが淡く房内を照す頃になると氣持はぢんとおちついて來た。とんでもないところで大西のいつた休養ができると杉村はわらつた。とらへられたことによつて當面の困難な任務から一時でも解放されることの氣易さを、ちよつとでもそんな氣の起ることを恥ぢながらも感じた。
 うつらうつらしてゐるうちに十日ばかりが經つてしまつた。――が、すぐに杉村は思ひがけない衝撃にぶちのめされなければならなかつた。
 ある日杉村は町の本署へまはされた。留置場のある建物へ導かれ、廊下の隅に立つて待つてゐると、一人の男が房から出され、持ちものの調べがはじまつた。俺の代りによそへやられるんだな、と思つてひよいと見ると、和服姿で顏ぢゆう髯だらけになつてはゐるが、まぎれもなく小泉だつた。向うはとうに氣がついて、ちらりとこつちを見ては眼にものをいはせてゐる。
「ちよつと便所へ。」とそのとき小泉はいひ、いふ
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