るで商人の感じである。言葉も標準語を器用に使つた。峠の向うだから萬事におくれてゐるだらうと考へたのはこつち側のひとり合點で、國境を越えたすぐ向うには工業都市として有名な隣縣のY市を控へてゐ、Y市のこの地方にたいして持つ意義は大きかつたのである。
「組合の本部の方からはどの位の費用が出るのでせうな。つまりその何ですな、先生の、こちらへの御滯在の費用として。」と、その會合をT郡組合支部結成第一囘準備會といふことにして、どこに事務所を構へるかといふことになつたとき、さきの男がさぐるやうな眼つきをしていつた。彼はもう冷たい打算を働かしてゐるのだつた。はたして組合にそれだけのねうちがあるかどうかそれはこの秋でも越してみねばわかることではない。そしてそれがわからぬうちはびた一文でも出すことではない。「さあ、私の生活費として十圓ぐらゐでせうね。そのほかに通信費なぞは出ますけれど。」と杉村はいつた。で人々はそれきりしばらくだまつた。いくら田舍だとてそれくらゐの費用で一軒の事務所を構へるといふことは不可能である。彼らはそれから一時間以上にわたつて一つ事のまはりをどうどうめぐりした。杉村を當分彼らのうちの誰かの家に泊めるのほかはなく、しかしうるさいことにはできるだけ係りあはぬのがとくだといふ腹がみんなにある。A―がとこは? と名ざされると、名指された本人はあわてて顏の前で手をうちふり、とうから用意してゐたらしい言葉でそれぞれの理由のかげにかくれるのである。つひにある老いた自作農の家にそれが押しつけられた。いよいよそれにきまると今度は急に損をしたやうな氣持のして來るものもあるのだつた。
「B―の親爺もうまいことをやつたものさ、組合の事務員を家さ泊めときや、なんぼちつとばしでも毎月きちきちと現ナマがはいるけんな。」さういつた一人の言葉を杉村はいつまでも忘れなかつた。――
 それからの三年間は何といふ偉大な一時期であつたことだらう。偉大といふ言葉をそれに冠して少しも言ひすぎであるとは思はない。社會の上に見ても杉村個人の上に見ても。その複雜さ、その豐富さ、その意味の深さにおいてその三年間は杉村の過去二十年の全經驗を越ゆるものであつた。疑はず全身で生きるといふことはかくも素晴らしいものであるか。その秋はじめて準備會を持つた組織は翌年の春には正式の支部八つ七百人を越ゆるものとなつていた。この地方の各所に當時まだ殘存してゐた麥年貢撤廢の成功が發展の重要なモメントとなつたのである。急激に組織はのびまる一年後のその秋にはおくれて登場したその地區は他の古い地區を完全にしのぐ勢力となつてゐた。今は獨立した事務所を持ち、杉村は有給の書記となり、オルグとしての才能を認めらるるにいたつた彼の得意は知るべしであつたが、何がしかしさうした急速な發展の原因であつたものだらう。何よりも時のいきほひである。それに杉村の努力もなみなみならぬものがあつたにちがひはないが、組織の發展を促した諸矛盾そのものが、反對物を導き出す要因ともなりうるやうなものであつたことに、若い杉村は長く氣づかずにゐたのである。半ば封鎖された自然經濟のうちに生きてゐる東北地方の農民を見慣れた杉村の眼にはこの地方の農民生活は驚異であつた。朝、杉村はY市に續く表の道をひつきりなしに通る、蔬菜の山を積んだ車の音に眼をさました。畑の一角をかこつて觀賞用の草花をつくるものがあり、傾斜した日あたりのいい山の手には果樹の類の植ゑられることが近年めつきりえて來た。二男三男に植木屋を仕込んでゐる百姓もぼつぼつあつた。Y市にM―紡績の支工場が出來ると、早速女工の勸誘員になり、隣接地方の娘さがしに出かけて行くものが少くなかつた。時々投機的な對象物がどこからともなく村々を襲ふのであつた。最初せきせいいんこがはやり出しそれが下火になると兎が、それから食用蛙がはやつた。百姓たちは熱病にかかつたやうな眼つきをし、田圃の仕事の餘暇をぬすんではそのへんをうろうろし、人に逢ふとすぐにお互ひの袖の下に手を入れて指をにぎり、顏を見合せてにやりと笑ふ。これでか、いやもう少し、うん、買つた、よし賣つた、などといふのである。それらは暴風のやうにやつて來、百姓たちの金を何處へかかすめとり、又暴風のやうに去つて行くのである。青年時代を何年間か都會生活に過したものが多く、さういふ農民は農民に特有と思はれる魯鈍と無智からは一應遠いものに見えるのであつた。新聞の相場欄を理解する知識を持ち、時の政治家の人物をあげつらふのであつた。――組合の組織の急速な發展の原因はこれらの諸現象の交錯したなかにあつたといへる。小作料減免の要求においては彼らは強腰で一歩もあとへ引かなかつた。裏切りを拒ぐための小作料の共同保管は彼らに不必要で、組合加入後の彼らは、――いや、それを目的に彼らは組
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