引上げた。
控室には会長、副会長を初め三、四幹事の方々がお見えになっただけであった、話はただいま会場でお話したそれについて、それを中心に、さらに具体的・実際的・地方的へと次第に深入りをするようになり、またそれだけ興味も加わり、ついに講演前私の観察しておいた、福島町郊外にある夏季の卓越風による柿の木の特殊な樹景およびそこの空中湿度によるその柿の木の幹にできている「スギゴケ」の実地見学に出かけるというところまで進んでしまい、いずれも、とくに当日は多忙の方々であったにもかかわらずその貴重な時間を割いて、共に野外にまで立っていただくということになった。
しかも、それだけではない。ついに会長が、その御郷里においては、村長と農会長とを兼ねておられるというので、その村の風土調査に実地に携わるようにとの重任までもお引受けするようになってしまった。きわめて粗末な講演ではあったが、とにかく、少なくとも幹部の方々のいくぶんの共鳴なりを得たことは確かであった。
ところがその後、約一ヶ月も経ってからのことであったと記憶するが、たまたま今私の在住しているこの諏訪郡およびそれに含まれた岡谷市とからなる、いわゆる市町村吏員会の幹事の方がお見えになり、「自分は過般木曾での会合に直接話を聴いた一人であるが、ああいった話をわれわれにだけでなく、吏員の全部で聴きたい。ついては幸い、こんどそれらの人の総会があるからそれに出席するように」との案内を受けた。
ところが幸い、さらにまたそれが起因となって、その吏員の総会に出席された某村長氏の厚意により、その村の青年会と農会との共同の会合に出席する機会を与えられた。もちろん話の内容は、それが時に全信州であったり、全諏訪であったり、時には単にその一町村だけであったりしたから、その広狭に応じてできるだけ実際的の、すなわちその時の聴講者の直接実見・観察のできるいわゆる実例をなるべく多く提供することにし、演題もその都度変えては臨んだが、自分の使命達成、言い換えれば「風土性に対する認識並びに理解の向上普及」という点が中心であったことについては寸分の変りはなかった。
要するに、如上の講演要項によっても窺知できるように、なにもとくに珍しい見方・考え方を発表したわけではなかった。私としてはきわめて当然な普通な、考えようによっては平凡な発表であるにもかかわらず、かく多数の方々の共鳴を得たということは、最近の世相そのものに、こういった方面が不幸にしてとくに忘れられがちになっておった、あるいは今もなお忘れられているということを察するに十分である。これではいけない。及ばずながら、さらに進んでより広く深くこれを提唱して行くべきである。その使命の重大かつ急務を痛感するのであるが、ただ何分にも、現在私の病躯はそれを許してくれない。そこできわめて不備とは承知しながらも、ここに重ねて、その当時の拙講の要項を掲げて、より大方の批正を仰ぐことにしたわけである。
底本:「三澤勝衛著作集 3 風土論(二)」みすず書房
1979(昭和54)年6月25日初版発行
1980(昭和55)年4月15日第2刷発行
底本の親本:「新地理教育論」古今書院
1937(昭和12)年
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2009年8月15日作成
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