自力更生より自然力更生へ
三澤勝衛
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はじめに
次の小文は、昭和十一年の春、長野県砂防協会の第三回総会に招かれたその席上での小講演要項である。会合された方々、すなわち聴講者の内容は県庁内のその方面の方々を初め、実際各地の崩壊地において直接その方面の事業に携わって苦労されておられる技術家の方々、および直接その崩壊被害のために年々苦難されておられる長野県各地の市町村長および助役といったような方々で三〇〇余名の会合であった。
会合の場所が木曾福島町であり、翌日はその木曾地方の崩壊地およびその砂防工事の見学ということが予定されておった。
したがって講演の資料を努めて信州各地の実例にとり、しかも木曾地方の資料をやや過分に取入れることに考慮した。しかし講演の本旨は、とにかくそういった崩壊、すなわち被害に直面し、どちらかといえば、その自然の偉力に対し常に対抗するかの境遇に立っておられる方々の集りであるから、ともすれば「自然征服」といったような考えと意気とを持って向われておられる方々がないとは断じ難い。あるいはそういった考えを明瞭に意識されておらないまでも、いつとはなしに、それが頭のどこかに入っているという心配は十分にある。
もちろん、山野の崩壊の中には、その原因として、(1)[#「(1)」は縦中横] 濫伐とか開墾とか、あるいは無理な道路の開鑿とかいった人工的のものと、(2)[#「(2)」は縦中横] そこの地盤の隆起沈降といった自然的のものとの二つがある。多くの場合、この両者の共同といったような場合が一番多いかも知れない。したがってその自然的原因に対しては、とうていわれら人力の勝手にはならない。いっそうのこと、逆にその崩壊を善用するという態度に出るのが当然である。いずれにしても「自然力征服」という考えは完全に拭い去ることが必要である。与えられた時間がわずか一時間半という短時間ではあり、とうてい十分の成果を挙げることはできないとしても、その点に主眼をおいた。
もちろん、われわれ地理教育者の大きな、しかも、直接の使命は「風土性に対する正しい認識と理解」の向上普及にあることは言うまでもないが、その風土性というものが、すでにそれが大自然の一部、一要素なのであるから、その風土性に対する徹底した認識や理解を得るためには、さらに遡って、一般人士の大自然に対する正しい認識と理解とが重要視されるわけでもあるし、また考えようによっては、地理的教育直接の目標である風土性の認識・理解も、やがては大自然そのものの認識・理解への一課程と見るべきものでもある。したがって、本講演では、直接地理学そのものを表面に振りかざしてはおらないが、もちろんその話がいかに粗末なものであったとしても、私の講演であるから、実は地理教育直接の目的を片時も忘れておったわけではなかった。が、とにかくこの際は、聴講者のすべてが、皆それぞれの指導的位置に立っておられる方々であったから、その指導原理、指導精神の中へ、また思い切った欲を許して頂くならば、中へではなく、その基調とまでして、自然礼讃、自然順応という思想を把握していただき、それをもって日常その指導の局に当ろうといった決意を持っていただけるような方の、せめて一人でも二人でもできたならばと、それが大きな念願でこの演壇に立ったわけであった。
本論
先頃、本日ここに、皆様の御会合が催されますにつきまして何か一場のお話を申上げるようにとの御案内を頂きましたので、及ばずながらお引受はいたしておきましたものの、さて、平素こういった方面の研究には直接携わっておりませんので、どういったお話を申上げたならば、といろいろ考えました末、ここに掲げていただきましたような題の下に卑見の一端を申上げさせて頂こうかと存じまして、簡単に原稿を認めて参りました。しかしとくにまとまったようなお話もできず、それに先刻来きわめて有益なお話のありました後のことでもあり、かたがたまことに御迷惑のこととは存じますが、暫くの間御清聴を煩わしたいと存じます。
まず、今日の情勢を、これを文化史的に考えまして、最も私どもの目につきますその一つは、おそらくそれは、交通の発達ということでございましょう。海には汽船、陸には汽車や電車や自動車が、それに空には飛行機、なおまた、通信方面では電信・電話の普及発達は申すまでもなく無電、ラジオ、テレビジョンといったようなわけで、まことにすばらしい勢いで、時々刻々また、地方から地方へと普及し発達して参っております。現にこの木曾地方にいたしましたところで、かつてはここが中仙道中の最も難関な場所と言われておったこの土地が、今日では汽車や自動車が盛んに通るようになり、それがひいては、ここの有名な産業の一つとなっております牧畜業から、さらに農業方面へまでも、しかも普通のお方ではちょっとお気づきにならないような方面にまでも、影響して変化させて参っているのでございます。
実は、先ほども、ちょっと時間がありましたので、かねがね調べて見たいと思っておりましたこの地方の稲の苗代田の調べをして参ったのでありますが、御承知でございましょうか、如何ですか、ここの苗代はその様式において一つの特徴をもっておりまして、すなわちその広い「ヌルメ田」を持っておりますことは、それは冬、水を灌漑いたしております地方の一般の景色で、とくに珍しいというほどのことでもございませんが、苗代田が、その広い「ヌルメ田」の中央に、さながら島状にできているものが、今なおその各部に散見しているそれについてであります。これは以前まだ、この地方に汽車や自動車の入って参りませんでしたその当時、その春先き、この地方の農家では、その飼馬を毎日野放しにしたのでありますが、その際、その苗代の苗が、その馬からの被害を免れるがための、それへのきわめて巧妙な対策の結果であったということでありますが、それが前にも申しましたように、汽車や自動車が通るようになってからは、その放馬もできなくなり、したがってそういった様式の苗代の必要もなくなったのであります。もっとも今なおその各所に散見いたしますのは、いよいよその田植時、その苗代田の跡へ直ぐに植付けることのできるように、前もって畦塗りをしておくことのできる便宜上からだとのことであります。その田植日の早晩に一日を問題としているこの地方としては、これもまたまことに当然の様式ではありますが、とにかく、その内容はすなわち意味は変っているわけであります。
とにかく、これはほんのその一例でございますが、そういった交通の発達ということが、さらに意外な方面に、しかも偉大な影響と変化とを及ぼしていることを、私どもは注意しなくてはならないと存じます。
もともと、こういった交通機関の発達というものは、その直接の原因は「科学の発達」によるものであることは申上げるまでもない明瞭なことでございます。したがって、現代は交通発達の時代でもありますが、また見ようによっては一面「科学発達の時代」と言う方がより適切かも存じません。すなわちそれは、それらの器機や機関のそのすべてが、科学の力によってできたわけだからでございます。したがって科学が発達すればするほど、そういった便利な器械や器具が発達することになり、ついには御承知の如く、誰言うとなく「科学万能」というような声さえ用いられて来るようになりました。
しかし、科学が万能かどうかということは、科学そのものの本質を考えて見ますれば直ちに解決のつきますことで、なにもそう面倒なことではございません。御承知のように、科学というものは、私どもの持っている五つの感覚を透して、いや五つの感覚だけを透して、物の真相を明らかにしようと努めている、われわれ人類のもつ一つの指向であります。しかし、ちょっとお考えになってもお解りになりますように、必ずしも物の真相が、単にわれわれの持合せている五つの感覚だけで、完全にそれを明らかにし得るかどうかということは疑わしいものであります。おそらくは至難であり、いや不可能かとさえ思われてならないのであります。もちろん、究めるほどその真相へ近づくことはできるかも知れません。が、これについては、日常、自身直接その科学に従事されておられる学者は、十分その点を理解されております。かの科学に従事されている学者の方々が、しかも権威ある方々が、いや権威ある方々ほど、「調べれば調べるほどわからなくなる」といっておられます。また、大学卒業以来大学の教授として長い間研究を続けられ、その後停年制のために、惜しくもその席をお引きになったその時の御感想に、「どうも卒業した当時が一番ものが判っておったような気がする。ところが、卒業後、今度はいよいよ直接自分でその研究に携わって見れば、今までのいずれの研究に対しても、ただ、疑問が深まるだけで、何一つ判らなくなってしまった」と述懐になっておられます、そういったお方を幾人も私は承知いたしております。また、中には、「努力に努力を重ねて行ったならば、やがては、その真相の把握もできるであろうと信じて、毎日研究を続けているのである」といっておられる科学者もございます。しかしそれは「信じて」の上のことであり、しかも「やがて」のことであって、決して現在のことではございません。その点をよくよく注意しなくてはならないと存じます。
早い話が、なるほど今日の科学は、電気や磁気といった物質科学の方面の研究は相当の域にまで進んではおりますが、生命科学の方面では如何でございましょうか、御承知のように、まだアメーバ一匹人工では作られてはおりません。それどころか、その生命の本質究明をその使命とすべき生物科学者が、中には「生命は永遠の謎である」などといって、手を触れそうにもしない学者さえございます。まして、精神科学の方面の如きいかにそれがまだ幼稚であるかは十分想像していただけることと存じます。
これは、なにもその方面の学者が懶《なま》けているというのでは決してございません。およそ物には順序というものがありまして、まだそこまで進んでおらないということでございます。したがって、実はまだまだ科学万能どころの話ではございません。きわめて初歩の時代であると考えるのが妥当とさえ考えたいのでございます。
もちろん、私どもは、仮の宿とは承知しながらも、時にはその調べた「事実」に対しまして、「説明」を試みることがよくあります。しかし、事実と説明とを混合してはならないと存じます。説明はどこまでも、それは仮の宿りであります。即ち仮説であります。時に科学者の中には、その不安に耐え切れず、ついに、宗教へ転向とまではならなくとも、深い関心をお持ちになるようになられたお方も決して珍しくはありません。私もまた、これがまことに当然の帰趨かと考えているのでございます。物質科学にしたところで、実は生命科学や精神科学の方面が進歩しなければ、とうてい十分の説明のできる筈のものではございません。
しかしこれは、直接その科学の研究に従事されておられる学者のことでありまして、科学者以外の方々の間には、不幸にして、その科学に対する認識の不徹底から「科学万能」というように考えておられる人たちが、また決して少なくないようでございます。しかも、その科学なるものが、私ども人類のその意欲の建設したものである結果、それがついには、「人間万能」というような思想を招来させまして、それに対して、さらにその人間の他の一方に、その人間の意欲を抜きにした、大自然というものをその対象として押し立て、言い換えますと、その大自
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