構であったが、この寒さでは閉口閉口。ブルブル震えながら山頂に立って、
「オーイ、剛力ィ――。オーイ、剛力ィ――」と叫んで見たが、応《こた》うるものは木精《こだま》ばかり、馬糞《うまくそ》剛力どこをマゴ付いている事やら。
その内に再び雨さえ降って来たので、コリャ堪らぬ堪らぬと、杉田子はお年寄り役だけに、若手の面々を指揮して枯木枯枝を集めさせ、廃殿の横手に穴のような処を見付け出し、頻《しき》りに焚火《たきび》をしようと焦ってござるが、風が吹く、雨が降る、その上燃料が湿っているので火はなかなか付かぬ。エイ生意気な雨だと怒って見ても、雨は相手にならず。
漸《ようや》く火の盛んに燃え付いた頃、剛力先生もまた漸く上《あが》って来たので、まず早速着服に及ぶ。何はともあれ腹が減って堪らぬから、一同は焚火を囲んで夕食に取掛かったが、これはしたり! 一行二日分の握飯は風呂敷に包んで若い方の剛力が背負《しょ》って来たのだが、この男元来の無精者、雨が降っても蔽《おお》いもしなかったものと見え、グチャグチャに崩れた上に、雨に濡れてベトベトになっている。
「こんな物食えるものか」と、怒っても、他《た》に食う物はないので、仕方なく一口やってみたが、これまたしたり! なんだか臭いようで、その塩からいこと夥《おびただ》しい。握飯がこんなに塩からい理由《わけ》はないと、よくよく調べてみると、ああ汚いかな、剛力先生数里の間汗だらけになって握飯を背負《しょ》って来たので、流るる汗が風呂敷を通して尽《ことごと》く握飯に染み込んだ次第、つまり握飯の汗漬《あせづけ》が出来た訳だ。
コリャ堪らん。英雄豪傑の汗なら好んでもしゃぶるが、こんな懦弱《よわ》い奴の汗を舐《な》めるのは御免である。万一その懦弱が伝染しては堪らぬと、吾輩はペッと吐出してしまったが、それでも背に腹は替えられずと、苦い顔をしながら食った連中もあった。剛力は無論自分の汗だから平気である。得意になってムシャムシャ頬張っている面の癪《しゃく》に触る事!
吾輩等は握飯を失ったので仕方なく、コーンビーフの缶詰を切り、握飯の中の梅干だけはまさか汗漬にもなるまいと、塩からい冷肉をパク付き、梅干をしゃぶっている心細さ!
(一三)駆落《かけおち》の落書
このミゼラブルな夕食を終ったのは、午後の九時前後であったろう。夜《よ》は暗く、ただ焚火の光の空を焦がすのみ。雨は相変らずショボショボと降り、風は雑草を揺がして泣くように吹く、人里離れし山巓《さんてん》の寂莫《せきばく》はまた格別である。
廃殿の柱や扉には、曾《かつ》てここを過ぎた者の記念と見え、色々様々の文字が記してあるが、中にこんな事も書いてあった。
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「明治四十三年十月二十日、黒羽《くろばね》町|万盛楼《まんせいろう》の娼妓《しょうぎ》小万《こまん》、男と共に逃亡、この山奥に逃込みし筈《はず》、捜索のため云々《うんぬん》――」
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と、捜索に来た人間の名も麗々と記してある。こんな山奥に逃込むとは驚いた女もあるものかな、もしや男と共に谷間へ投身《みなげ》でもしたのではあるまいか、どこかそこらの森林で首でも縊《くく》って死んだのではあるまいかと思うと、余り好《い》い気持はせぬ。
その内に夜はシンシンと更けてくる。しかしまだ寝るには早い。イヤ寝るにも毛布《けっと》も蒲団も無いので、一同は焚火を取囲み、付元気《つけげんき》に詩吟するもあり、ズボンボ歌《うた》を唄《うた》うもあり。風上にいる者は雨の飛沫《しぶき》を受けるだけで我慢もなるが、風下にいる連中は渦巻く煙に咽《むせ》び返って眼玉を真赤《まっか》にし、クンクン狸のように鼻ばかり鳴らしている。
とかくする内に、一同は咽《のど》が乾いて堪らなくなって来た。それもその筈だ。汗水たらして激しく山登りをして来た上に、握飯には有付けず、塩からい冷肉を無闇《むやみ》にパク付いたので、迚《とて》も堪《たま》ったものではない。
「ああ咽が渇く、咽が渇く」との嘆声八方より起る。なるほど八人口々に唸るのだから、これこそ本当の八方じゃ。
なんでもこの山巓《さんてん》を少し降《くだ》った叢《くさむら》の中には、どこかに岩間から湧き出《いづ》る清泉《せいせん》があるとは、日中|麓《ふもと》の村で耳にしたので、
「オイ、その清泉《いずみ》の所在《ありか》を知らぬか」と剛力に聴いてみたが、
「一向知らねえだ」と澄ました顔をしている。後《あと》から考えてみると、数回この山に登った奴が全然知らぬ道理はない、きっとこの雨の中を汲みに遣られては堪らぬと、自分等も咽の渇くのを我慢して、焚火に噛《かじ》り着いていたいため、知らぬ顔の半兵衛を極《き》め込んでいたものと見える。
一行は手分けをして、雨に濡《うるお》う身長《みのたけ》より高い草を押分け押分け、蚤取眼《のみとりまなこ》で四方八方捜索したが、いかにしても見出す事が出来ない。咽はいよいよ渇いて来る。ある先生はショボショボ降る雨でも飲んでくれようと考えたものか、空を仰いで大口開けて突立っているが、雨はなかなか旨《うま》く口中へ降り込んではくれぬ。その馬鹿気た風体は見られたものではなかった。
(一四)暗中|水汲《みずくみ》隊
いよいよ山巓《さんてん》に近く水が無いものとすれば、胸突《むねつ》き八丁を降《くだ》って金性水《きんせいすい》まで汲みに行かねばならぬ。オオ金性水よ! 金性水よ! そこには氷のごとき清水が瀑布《たき》のように落ちているのだ。それを考えただけでも咽《のど》がグウグウ鳴る。しかしこの疲れた足で金性水を汲みに行くのは容易な事ではない。この暗い夜! 胸突き八丁の険阻。ことにこんなジメジメした夜中《やちゅう》には、蝮《まむし》が多く叢《くさむら》から途中に出ているので、それを踏み付けようものなら、生命《いのち》にも係わる危険であるが、咽の渇きも迚《とて》も怺《こら》える事が出来ぬので、一同は評議の上、留守師団は水汲み隊の帰ってくるまでの間に、天幕《てんと》を張り、寝る用意を総《すべ》て整えておく事とし、未醒《みせい》子、杉田子、髯将軍の三人は、身を殺して仁を為すといわぬばかりに、甲斐甲斐《かいがい》しく身支度を整え、水筒はただの三個の他《ほか》はないので、こればかりの水では足らぬと、廃殿の中を捜し回り、古びた花立のような長い竹筒を見付け出したので、それ等をぶら下げ、懐中電灯に暗い険しい胸突き八丁の道を照らしつつ、雨を冒して金性水の方《かた》へと降りていった。
跡に残った吾輩等は、焚火に燃ゆる枯枝を松明《たいまつ》と振り照らし、とある大木の下の草の上に天幕《てんと》を張り出したが、松明は雨で消える、鉄釘は草の中へ落ちて見えなくなる、その困却は一通りでなかったが、彼《か》の殿様然たる剛力どのには、水を汲みに行こうとはいわねば、天幕を張る手伝いをするでもなく、ただ焚火に噛《かじ》り着いてはや居眠りを始めてござる。
三、四十分も掛かって漸《ようや》く天幕《てんと》を張り終り、筵《むしろ》を敷いてそこへ覚束《おぼつか》なくも焚火を始めた頃、水汲み隊は息を切らしヘトヘトになって帰ってきた。
「万歳万歳」の声は四方に起り、一同は蟻《あり》の甘味《あまき》に付くように水汲み隊の周囲《まわり》に集り、咽《のど》を鳴らして水筒の口から水を呷《あお》る。その旨《うま》い事! 甘露ともなんとも譬《たと》えようがない。
スルト今まで居眠りをしていた剛力先生、二人共ノソノソやって来て、吾輩等の背後《うしろ》から猿臂《えんび》を伸ばして水筒を掴《つか》もうとする。
「コラッ、貴様ッ、ろくろく働きもせぬくせに、生血《いきち》のような水を唯《ただ》飲みしようとは、怪《け》しからん奴だ」と呶鳴《どな》り付けたが、考えてみればあれも人の子、咽の渇くのは同じだろうと惻隠《そくいん》の心も起り、
「皆飲むなよ」と、長い竹筒の水を渡してやれば、先生竹筒に口を当てるが早いか、逆様《さかさま》にして皆ゴボゴボと飲んでしまった。イヤ腹の中へ飲んだのならまだいいが、奴《やっこ》さん一口でも多く飲んでやろうと周章《あわ》てたため、水汲み隊が汗水流して汲んで来た大事な水をば、大半ゴボゴボと溢《こぼ》して地面に飲ませてしまったのだ。よくよく癪《しゃく》に触る奴等であるわい。
(一五)巨大な天狗面
しかし小言《こごと》をいったとて帰らぬ事、一同は些《いささ》か咽《のど》の渇きも止《とま》ったので、
「サァ明朝《あす》は早いぞ、もう寝ようか」と、狭い天幕《てんと》内へゾロゾロと入り込んだが、下は薄い筵《むしろ》一枚で水がジメジメ透《とう》して来る。雨はますます激しく、開放《あけはな》しの入口は風と共に霧さえ吹込んで来るので、なかなか以て横になる事も出来ない。その内に焚火は天幕の一隅に燃え付いて、天幕は鬼火のように燃え上がる。
「ヤア、火事だ火事だ」と、周章《あわ》てて揉み消す。火の粉は八方に散る。
「これは迚《とて》もいかん。寧《むし》ろ廃殿の中で眠った方が得策だ」と早速天幕を疊み、一同はまたもやゾロゾロと、簷《のき》は傾き、壁板は倒れ、床は朽ちて陥込《おちこ》んでいる廃殿に上《のぼ》り、化物の出そうな変な廊下を伝《つたわ》って奥殿へと進み、試みに重い扉を力任せに押してみると、鍵は掛《かか》っておらず、扉はギーと開《あ》いたので、これは有難いと、懐中電灯の光に中を照《てら》してみると、奥殿の床板は塵埃《ちりほこり》の山を為《な》し、一方には古びた巨《おお》太鼓が横《よこた》わり、正面には三尺四方程の真赤《まっか》な恐ろしい天狗の面がハッタとこちらを睨んでござる。一人でこんな場所へ来てこんな恐ろしい面を見たら、キャッと叫んで逃げ出すかも知れぬが、一行は大勢なのでチットも驚かない。
「ハハァ天狗様が祀《まつ》ってあるのだな、これは御挨拶を申さずばなるまい」と、そこで髯将軍は恭《うやうや》しく脱帽三拝し、出鱈目《でたらめ》の祭文《さいもん》を真面目|臭《くさ》って読み上げる。その文言《もんく》に曰《いわ》く、
「コレ、天狗殿、吾輩は東京天狗倶楽部の一|人《にん》、吉岡信敬なり。敢《あえ》て閣下の子分に非《あら》ずと雖《いえど》も、また多少の因縁なきにしもあらず。今夜ここに泊る。もし猛獣毒蛇|来《きた》らば、その眼玉で睨み殺して賜われ。猛獣ならばその皮は吾輩有難く頂戴《ちょうだい》する。終りッ!」
スルト側《そば》から水戸の川又子、俳号を五|茶《さ》と申す、宗匠気取りで、
ああら天狗一夜の宿を貸し給え
と駄句《だく》れば、
「アーメン」と誰か混ぜ返した者がある。
「コラ、そんな事をいうと、天狗様の罰が当るぞ」と、未醒《みせい》子は眼を剥く。先生の相貌、羅漢に似たる為か、アーメンはよくよく嫌いと見えたり。
(一六)拝殿の[#「拝殿の」はママ]一夜
サア天狗様へ御|挨拶《あいさつ》も済んだというので、一同は奥殿の片隅を拝借し、多くはビショビショに濡れたまま、雑嚢《ざつのう》や新しい草鞋《わらじ》を枕に横《よこた》わったが、なかなか以て眠られる次第ではない。下は毛布《けっと》一枚敷かぬ堅い床板なので、腰骨や肩先が痛くなる。深夜の寒気《さむけ》にブルブル震えて来る。その上得体も知れぬ虫がウジウジ出て来て、誰かの顔へは四寸程の蚰蜒《げじげじ》が這《は》い上《あが》ったというので大騒ぎ。あっちでもブウブウ、こっちでもブウブウ、その内にゴーゴーと遠雷のような音響《ひびき》、山岳鳴動してかなり大きな地震があった。
「ソラ、天狗様の御立腹だ」と、一同は眼玉を円《まる》くする。ヌット雲表《うんぴょう》に突立《つった》つ高山の頂辺《てっぺん》の地震、左程の振動でもないが、余り好《い》い気持のものでもない。しかしこんな高山絶頂の野営中に地震に出逢うとは、一生に再び有る事やら無い事やら、これも後日一つ話《ばなし》の記念となるであろう。
とにかく寒気《さむさ
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