盛んな盆踊りを見付けたので、今度は巡査と間違えられる気遣いもなく、髯将軍は盆踊りの親方らしき若者と交渉の上、首尾よく珍妙な踊りを二、三枚撮影したが、夜中《やちゅう》の事とて不意に閃電《せんでん》のごとくマグネシヤを爆発させて撮影するので、その音に驚き、キャッと叫ぶ女もあれば、閃光に眼《まなこ》を射られて暫時《しばし》は四方真暗、眼玉を白黒にしてブツブツいっている男のあるなど滑稽滑稽。

    (九)弱い剛力《ごうりき》

 翌日午前六時|大子《だいご》駅出発。これから八里の山道を登って、今夜は海抜三千三百三十三尺、八溝山《やみぞさん》の絶頂に露営する積りである。そこで剛力を二人雇い、写真器械だの、天幕《てんと》だの二日分の糧食だけを背負わせたところ、重い重いと頗《すこぶ》る不平顔。
「ナァニ、こんな物が重いものか」と、追い立てるようにして出発したが、その遅いこと牛の歩行《あゆみ》も宜《よろ》しくである。仕方がないから一同その荷物の幾分を分担したが、それでもなかなか速くは歩かぬ。ことに若い方の剛力は懦弱極まる奴で、歩きながら無精な事ばかりいっている。剛力でない、弱力と呼んだ方が適当だろう。
「こんな奴はズット先へ遣っておいた方がよかろう」というので、二、三里先へ行って待っていろと命令して先発させ、一行は或《あるい》は山水の奇勝を写真に撮り、或いはゆるゆる写生などをし、もう牛《ぎゅう》的剛力も余程遠くへ行っているだろうと思い、急足《きゅうあし》に半里《はんみち》ばかりも進んでみると、剛力先生泰然自若と茶屋に腰打ち掛け、贅沢にも半腐りの玉ラムネなんか飲んでござる。癪《しゃく》に触って堪らぬ。ホイホイ背後《うしろ》から追い追い立て、約二里ばかり進めば、八溝川の上流、過般の出水の為に橋が落ちている。橋が無ければ徒歩じゃ徒歩じゃと、一同ジャブジャブ水を漕いで渡るに、深さは腰にも及ばぬ程であるが、水流は石をも転《まろ》ばす勢《いきおい》なので、下手をすれば足|掬《すく》われて転びそうになる。ドッコイ、ドッコイ、ドッコイショと、爺《じい》様のような懸声《かけごえ》をしながら漸《ようや》く河を渡り、やがて町付《まちつき》という寒村に来掛かれば、もう時刻は正午に近い。
「アア腹が減った。腹が減った」という声が頻《しき》りに起る。この昼飯《ひるめし》分は剛力に担がせて来たのだが、この前途《さき》山中に迷わぬものでもないから、なるべく食物《しょくもつ》を残しておけと、折りから通り掛かった路傍《みちばた》に、「旅人宿《りょじんやど》」と怪し気な行灯《あんどん》のブラ下がった家があるので、吾輩は早速|跳《おど》り込み、
「オイ、飯を食わせろ」と叫ぶと、安達《あだち》ヶ|原《はら》の鬼婆然たる婆さん、皺首《しわくび》を伸ばして、
「飯はねえよ」
「無ければ炊いてくれ」
「暇が掛かるだよ」
「三十分や一時間なら待とうが。何か菜《さい》があるか」
「菜は格別ねえだよ。缶詰でも出すべえか」
「缶詰ならこっちにもある。そんな物は食いたくない。芋でも大根でも煮てくれないか」
「芋も大根もねえだよ」
 嘘ばかりいっている。現に裏の畑には芋も大根もあるのに、それを掘るのが面倒なのか、高い缶詰を売付けようとするのか、不親切も甚《はなはだ》しいので、未醒《みせい》子大いに腹を立て、
「止《よ》せ止せ、こんな家の厄介になるな」
と、一行は尻をたたいてこの家《や》を出たが、婆さん一向《いっこう》平気なもの、振向いてもみない。食物《しょくもつ》本位の宿屋ではなかったと見える。
 三、四町行くとまた一軒の汚い旅人宿、幸いここでは、鰌《どじょう》の丸煮か何かで漸《ようや》く昼飯に有付くことが出来た。東京では迚《とて》も食われぬ不味《まず》さであるが、腹が減っているので食うわ食うわ。水中の津川五郎子八杯、未醒子七杯、髯将軍と吾輩六杯、その他平均五杯ずつ、合計約五十杯、さしもに大きな飯櫃《おはち》の底もカタンカタン。

    (一〇)登山競争

 町付《まちつき》村から、山道は漸《ようや》く深くなり、初めは諸所《ところどころ》に風流な水車小屋なども見えたが、八溝川《やみぞがわ》の草茂き岸に沿うて遡《さかのぼ》り、急流に懸けたる独木《まるき》橋を渡ること五、六回、だんだん山深く入込《いりこ》めば、最早どこにも人家は見えず、午後四時頃、常州《じょうしゅう》第一の高山八溝山の登り口に達した。登り口には古びた大きな鳥居が立っている。ここから山道は急に険しくなるのだ。絶頂までは一里半、頂上間近になれば、登山者の最もくるしむ胸突《むねつき》八丁もあるとの事だ。
 例の剛力先生なかなかやって来ない。鳥居の下で待つこと約三十分、杉田子、衣水子、木川子など付添で漸くやって来た。聴けばある坂道で、剛力先生|凹垂《へこた》れて容易に動かばこそ、仕方がないので、衣水子金剛力を出して、エイヤエイヤと剛力先生の尻を押上げたとの事。これではまるで反対《あべこべ》だ。呆れ返った剛力どのかな。
 八溝山の登り口からは、一里半登山競走という事に相成った。凹垂《へこた》れ剛力などは眼中にない。後《あと》からゆっくり来いというので、一同疲れし膝栗毛に鞭を加え、力声《ちからごえ》を上げてぞ突貫する。初め山道は麓の村落で嚇《おどか》された程急ではないが、漸く樵夫《きこり》の通う位の細道で、両側から身長《みのたけ》よりも高き雑草で蔽《おお》われている処もある。赤土の急勾配、溝のごとくになり、辷《すべ》って転ぶ事も幾回なるを知らず、足を大の字|形《なり》に拡げて両側の草を踏みつつ、ヨタヨタ進まねば容易に登る事の出来ぬ場所も五、六町。巌角《いわ》の突出《つきい》で巌石《がんせき》の砕けて一面に転《ころ》ばっている坂道は、草鞋《わらじ》の底を破って足の裏の痛きこと夥《おびただ》しく、折から雲霧は山腹を包んで、雨はザアザア振って来れば、水はこの巌石の細道を滝のごとく上から流れ落ち、さながら急流を踏んで山を登るに異《ことな》らず。
 ここに奇妙な事には、昨年日光の山中旅行では、常に凹垂れの大将となり、一行の厄介者であった吾輩、今日はいかなる風の吹き回しか、その元気|凄《すさ》まじく、水戸の津川五郎子と前後して先頭に立っている。ああら有難《ありがた》し、これも腹式呼吸のお陰《かげ》、強健術実行の賜物《たまもの》ぞと、勇気日頃に百倍し、半身裸体に雨を浴びてぞ突進する。こんな場合にいつも先人を争う髯将軍はいかにせしぞと後《のち》に聴けば、将軍、剛力の遅々《ぐずぐず》が癪《しゃく》に触って堪らず、暫時《しばし》叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》督励していた為に、思わず大いに遅れたという事だ。
 だんだん山道を高く登れば、四方に聳《そび》ゆる群山は呼べば応《こた》えんばかり、今まで遥か高く見えた山々の絶頂も、いつの間にか視線と平行になり、更に登ればはや眼下に見えるようになる。その愉快なることいわん方なく、膝栗毛の進みもますます速く、来た処は、音に名高き胸突き八丁の登り口。日ははや暮れかかり、渓谷《たにま》も森林も寂寞《せきばく》として、真に深山の面影がある。
 胸突き八丁の登り口に近く、青い苔の生《む》した断崖からは、金性水《きんせいすい》と呼ぶ清泉が滾々《こんこん》と瀑布《たき》のごとく谷間に流れ落ちている。これぞ八溝川の水源で、この細流に四方の水が合し、滔々《とうとう》として常州の山野を流れ行くのだ。

    (一一)先登《せんとう》の自慢

 吾輩と津川五郎子とは、百鯨《ひゃくげい》の長川《ちょうせん》を吸うがごとくガブガブ金性水を飲み、太鼓のように膨れた水腹を抱えて胸突き八丁を登って行く。頂上まで殆《ほとん》ど一直線に付けられた巌石《がんせき》の道で、西側には老杉《ろうさん》亭々《ていてい》として昼なお暗く、なるほど道の険しい事は数歩|前《さき》の巌角《いわかど》の胸を突かんばかり、胸突き八丁の名も道理《ことわり》だ。
 しかしこんな事に凹垂《へこた》れる吾輩でない、などと先頭に立っているので大いに得意になり、津川子と共にエイヤエイヤの掛声を揚げて攀《よじ》登る。雨は漸《ようや》く霽《は》れたが、流るる汗は滝のごとく、それに梢から滴る露を浴びつつ、帽子もズボンもズブ濡れになって、頓《やが》て六、七町も登って上を仰ぐと、嬉しや嬉しや、頭上には古びた神社の屋根らしき物が見える。あすここそ頂上に相違ないと、余りの嬉しさに周章《あわ》てたものか、吾輩は巌角《いわかど》から足踏み滑らして十分《したたか》に向脛《むこうずね》を打った。痛い痛いと脛《すね》を撫でつつ漸くそこに達し、拝殿にも上らず、直ちにその後《うしろ》の丘の上に駆け上《あが》ると、ここぞ海抜三千三百三十三尺、高さからいえば富士山の三分の一位のものであるが、人跡余り到らぬ常州《じょうしゅう》第一の深山八溝山の絶頂である。
 頂上には一個の石標があって、ここは常陸《ひたち》と下野《しもつけ》の国境《くにざかい》である事を示す。吾輩はすぐさまその石標の上に跳《おど》り上り、遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、吾こそは今日登山競走の第一着、冒険和尚|字《あざな》は春浪《しゅんろう》なりと呼《よば》わったが、音に聴く者も眼に見る者も側《かたわら》なる津川五郎子ばかり。四方《よも》の山々は、なんだ人間一|疋《ぴき》、蚊のような声を出すなと嘲《あざ》けっているように見える。未醒《みせい》子の漫画では、吾輩群を抜いて一着のように描《か》いてあるが、その実津川子と同着、シカモ吾輩は裸一貫、津川子には重い荷物のハンデキャップが付いている。残念ながら正直に白状|仕《つかま》つる。
 その内に髯将軍は、全身から湯けむり立てて登って来る。続いて未醒子、木川子など、一行は尽《ことごと》く到着したが、例の剛力先生容易に到着する気遣いはない。
 見渡せば、群を抜ける八溝山の絶頂は雲表《うんぴょう》に聳《そび》え、臣下のごとき千山万峰は皆眼下に頭を揃えている。雲霧深くして、遠く那須野《なすの》の茫々《ぼうぼう》たる平原を一眸《いちぼう》に収める事の出来ぬのは遺憾《いかん》であったが、脚下に渦巻く雲の海の間から、さながら大洋中の群島のように、緑深き山々の頭を突出《とっしゅつ》している有様は、実になんともいう事の出来ぬ雄大なる光景であった。泰岳《たいがく》巨峰の風物は人間の精神を雄大ならしめるというが、全くその通りに思われる。
 衣水子は山嶽《さんがく》志でも読んで来たものと見え、得意になって頻《しき》りに八溝山の講釈をやる。
「そもそもこの八溝山というのは、全く海抜三千三百三十三尺という不思議な高さで、山中には三水《さんすい》と唱える金性水《きんせいすい》、竜毛水《りゅうもうすい》、白毛水《はくもうすい》の清泉が湧き、五つの瀑布《たき》と八つの丘嶽《おか》とまた八つの渓谷《たに》とがあって、孰《いず》れも奇観だ。ことにこの山中に生ずるサヤハタという木は、水中に在ってもよく燃えるので、その皮を炬火《たいまつ》として大雨中《だいうちゅう》でも振回して歩く事が出来るそうだ。先刻《さっき》通ったあの金性水の所には、昔時《むかし》四斗|樽《だる》程の大蛇が棲《す》んでおって、麓の村へ出てはしばしば人畜を害したので、須藤権守《すどうごんのかみ》という豪傑が退治したという口碑が伝わっている。現に今でもこの山中にはなかなか毒蛇が沢山いるという事だ、御用心御用心」と、首を縮めて腰の辺《あたり》を撫でている。

    (一二)汗臭い握飯《にぎりめし》

 その話は面白いが、しかし吾輩は山登りの汗が引込むに随《したが》い、だんだんと寒くなって仕方がなくなった。それもその筈《はず》である。吾輩は帽子もズボンもズブ濡れで、腰から上は丸裸、山頂の雲霧を交えた冷風がヒューヒュー吹き付けるのだから堪ったものではない。シャツや上衣《うわぎ》は今朝剛力の担ぐ荷物の中へ巻入れてしまったので、暑い道中は誠に結
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