自分で自分を見れば、これはいかなこと! 昨日《きのう》登山第一の元気はどこへやら、焼酎《しょうちゅう》は頭へ上《のぼ》って、胸の悪《あし》き事|甚《はなはだ》しく、十二、三町走るか走らぬに、迚《とて》も堪《たま》らず、煙草《たばこ》畑の中へ首を突込んで嘔吐《へど》を吐《つ》く。焼酎と胡瓜《きゅうり》は尽《ことごと》く吐《は》き出したが、同時に食った牛肉は不思議にも出て参らず、胃の腑《ふ》もなかなか都合好く出来たものかな。
そこに背後《うしろ》に人の足音が聴こえたので、南無三宝! 見付けられたかと、大急ぎで煙草畑から首を突出してみると、幸いに嘔吐《へど》はくところは見付けられず、そこには六十ばかりの梅干|婆《ばあ》さん眼玉を円《まる》くして、あっちに駆け行く一行を眺めつつ、
「何事が起っただね」と、さも驚いた顔。
吾輩は空惚《そらとぼ》けて、
「泥棒を追掛けているのだ」というと、婆さんなるほどといわぬばかり、
「あの髯生えた黒い洋服《ふく》、泥棒だんべい。お前様方刑事かね」と、ここから真先《まっさき》に逃げているように見える髯将軍は泥棒と間違えられ、吾輩等は刑事と相成った次第。
「そうだよそうだよ」と、吾輩焼酎を吐出してしまったので大いに気持もよく、またもやスタコラ走って漸《ようや》く雲巌寺の山門に着いてみると、先着の面々は丸裸となり、山門前を流るる渓流で水泳などをやっている。元気驚くべし!
一着は水中の津川五郎子で、一|哩《まいる》の時間十五分十二秒、二着は髯将軍、三着は羅漢将軍、四着は走れそうもない木川子が泳ぐようにして辿《たど》り着いたという事で、吾輩はビリの到着。昨日《きのう》の第一着は差引きでゼロと相成った。残念残念。
雲巌寺は開基五百余年の古寺《ふるでら》で、境内に後嵯峨《ごさが》天皇の皇子《おうじ》仏国《ふつこく》国師《こくし》の墳墓がある。山門の前を流るる渓流は、その水清きこと水晶のごとく、奇巌《きがん》怪石の間を縫うて水流の末はここから三里半ばかり、黒羽の町はずれを通っていると聴くので、足の重くて堪《たま》らぬ吾輩は一策を案じ出し、
「どうだ、大きな盥《たらい》を八個《やっつ》買ってそれに乗り、呑気《のんき》に四方の景色を見ながら水流《ながれ》に泛《うか》んで下ったら、自然に黒羽町に着くだろう」と、そこで新しい盥でも古い盥でも構わん、人間一|疋《ぴき》乗れそうな盥を売ってくれぬかと、そこらをウロウロ捜し回ったが、こんな寒村に大盥が八個《やっつ》もあろう筈はないので、せっかくの妙案もあわれオジャンと相成った。
しかし雲巌寺を出発してから行く途々《みちみち》、渓流に沿うて断岸の上から眼下を見れば、この渓流には瀑布《たき》もあれば、泡立ち流るる早瀬もあり、また物凄く渦巻く深淵などもあって、好奇《ものずき》に盥に乗って下《くだ》ろうものなら、二人や三人土左衛門と改名したかも知れぬのだ。盥が無くて仕合《しあわせ》仕合。
(二〇)とんだ宿屋
雲巌寺から黒羽町《くろばねまち》までは炎天干しで、その暑い事は焦熱地獄よろしくだ。半身裸体の吾輩などは茹章魚《うでだこ》のごとくになり申した。疲れに疲れし一行は、途中掛茶屋さえあれば腰を下《おろ》して、氷水を飲む、真桑瓜《まくわうり》を食う、饅頭《まんじゅう》をパク付く。衛生も糸瓜《へちま》もあったものではないが、こんな蛮勇には病魔の方から御免を蒙るのだから、途中腹を下すような弱虫は一人もなく、牛の歩みも一歩一歩黒羽町に近づき、この前途《さき》もう半里《はんみち》ばかりという処《ところ》まで来かかると、ここにも飴《あめ》ン棒など並べて一軒茶屋。一行はまたもや一休みして、
「黒羽で好《よ》い宿屋はどこだ」と試みに問うと、将棋を指していた四、五人の爺《じじい》連、
「そうさね、新しくできた花月がよかんべい。あの家《うち》は堅えだ。お前様方どこへ泊るね」というので、
「△△屋がいいと聞いたので、荷物も先回しに遣っておいた」と答えると、
「へへへへへ、あの家もよかんべい。梅《うめ》ヶ|谷《たに》みたいな女《あま》も二人いるだで――」と妙に笑う。形勢|甚《はなは》だ穏やかならん。よくよく聴きただせば、△△屋というのは女郎屋と背中合せの曖昧《あいまい》屋で、我が一行の荷物は先回しに、淫売宿《いんばいやど》へ担ぎ込まれた次第と分ったり。
「サア大変じゃ!」
第一に敦圉《いきま》き出したのは髯《ひげ》将軍、
「これはいかん! これはいかん! 淫売屋などへ泊れるものか、堅いという花月へ行こう」
「荷物はどうする」
「荷物なんか構うものか。△△屋の前は知らん顔に素通りして、後《あと》から宿屋の者を取りに遣る。ぐずぐずいったら査公《おまわり》に持って来て貰うさ」
「そうじゃそうじゃ
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