され、その片腕とか片脚とかは、かの巨巌の下に今なお取出す事が出来ず残っているという事だ。これには流石《さすが》の髯《ひげ》将軍も首を縮めて、お得意の奇声を放つこと飢えたる豚のごとし。
 この渡船場で滑稽な事があった。河水はさまで氾濫していなかったが、渡《わたし》船に乗って向うの岸に着き、
「船頭、いくら遣《や》ろう」と訊《き》けば、
「一人前四銭ずつだ」と、黒鬼のような船頭は澄ました顔をしている。
「そうか、高い渡船銭《わたしせん》だな」といいながら、八人前三十二銭渡して岸に上《あが》ると、岸上の立札には明《あきら》かに一人前一銭ずつと書いてある。
「此奴《こやつ》、狡猾《ずる》い奴だ」と、兵站《へいたん》係の衣水《いすい》子、眼玉を剥き出し、
「八人前八銭ではないか、余分を返せ」と談判に及べば、船頭は一旦《いったん》握った金を容易に放して堪《たま》るものかと、
「この大水だで――」と頑強に抵抗したが、「馬鹿をいうな。二尺や三尺増水したとて、四倍も増銭《ましせん》を取る奴があるものか。癖になるから返せ返せ」と、無理無理に二十銭だけ取返せば、船頭は口惜《くや》しそうに、
「ケチなお客だなァ」と、一行を見送りつついつまでも口を尖《とが》らしている。こっちがケチなのではない。山男のくせに欲張るからとんだ罵倒《ばとう》を受けたのだ。

    (八)盆踊り見物

 それより山道を或《ある》いは登り、或いは降《くだ》り、山間の大子《だいご》駅の一里半ほど手前まで来かかると、日はタップリと暮れて、十七夜の月が山巓《さんてん》に顔を出した。描けるごとき白雲は山腹を掠《かす》[#ルビの「かす」は底本では「さす」]めて飛び、眼下の久慈川《くじがわ》には金竜銀波|跳《おど》って、その絶景はいわん方《かた》もなく、駄句の一つも唸《うな》りたいところであるが、一行は疲れ切っているのでグウの音も出ず、時々思い出したように、オイチニ、オイチニなどと付景気《ついげいき》をして進んで行くと、この山中|諸所《ところどころ》の孤村では、今宵の月景色を背景に、三々五々男女|相集《あいあつま》って盛んに盆踊りをやっているが、我が一行の扮装《いでたち》は猿股一つの裸体《はだか》もあれば白洋服もあり、月の光に遠望すれば巡査の一行かとも見えるので、彼等は皆|周章《あわ》てて盆踊りを止《や》め、奇妙頂来な顔付をして百鬼夜行的の我等を見送っている。ある農家の前に差し掛かった時など、ここでも確かに我が一行に驚いて盆踊りを止めたものと見え、七、八人の男女はキョトンとした面付《つらつき》をして立っておったが、我等の変テコな扮装《いでたち》を見て、
「なんだ、査公《おまわりさん》でねえだ」と、一人の若者、獅子鼻《ししっぱな》を動《うごか》しつつ忌々《いまいま》し気にいうと、中に交った頬被りの三十前後の女房、黄《きいろ》い歯を現わしてゲラゲラと笑い、
「白い物が何でも査公《おまわりさん》なら、俺《わし》が頭の手拭も査公《おまわりさん》だんべえ」と、警句一番、これにはヘトヘトの一行も失笑《ふきだ》さずにはおられなかった。
 元来盆踊りは先祖代々各村落に伝わり、汗を流して働く農民随一の娯楽で、その唄とても、「ままになるならこの丸髷《まるまげ》を、元の島田にしてみたい」位なもので、東京の真中《まんなか》、新橋や赤坂等の魔窟《まくつ》で、小生意気なハイカラや醜業婦共の歌う下劣極まる唄に比すれば、決して卑猥《ひわい》なるものという事は出来ない。彼《か》の舶来の舞踏など、余程高尚な積りでおるかは知らぬが、その変梃《へんてこ》な足取、その淫猥《いや》らしき腰は、盆踊りより数倍も馬鹿気たものである。しかるに、盆踊りは野蛮の遺風だとかなんとかいって、一も二もなく先祖伝来の盆踊りを禁止し、他《た》に楽み少なき農民の娯楽を奪い去るとは、当世の役人や警官はよくよく冷酷な根性になったものかな。盆踊りの後《あと》で淫猥《いんわい》の実行が行われるから困ると非難する者もあるが、その実行は盆踊りの後に限ったことではない。芝居の帰途《かえり》にもある。活動写真の戻りにもある。日々谷公園の散歩中にもある。それら淫猥の実行は他の方法で取締るのが当然だ。帝都の真中で密売淫や強姦を十分に取締る事の出来ぬ警察力や、待合の二階で醜業婦共に鼻毛を読まれている当世の大臣や役人|輩《ばら》に、盆踊り位をとやかくいう権能は余りあるまいテ、馬鹿な話である。
 その夜十時頃、大子駅に到着。山間の孤駅であるが一寸《ちょっと》有福《ゆうふく》らしき町である。未醒《みせい》子や吾輩は水戸から加入の三人武者を相手に快談に花を咲かせ、髯将軍や木川《きがわ》子や衣水《いすい》子は夜中にも拘《かかわ》らず、写真器械引担いで町見物にと出掛け、折よく町はずれで
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