るる事だけは防ぎしならん、されど人を殺せし天罰は免かるるあたわず、幾度か打寄する巨浪《おおなみ》のために呼吸はとまり、船具の破片等にその身を打たれて、身体を大檣に縛りつけしまま他界の鬼となりしならん、かく心づいて見れば、彼の額や胸の辺りには幾多の打撲傷あり、今や血の痕もなけれど、傷口は海水に洗われて白くなり、かえって物凄き感をあたう、その他の海賊等は云うまでもなく巨浪《きょろう》に呑み去られしものならん。
八
余はこの惨憺たる光景を見て、じつに名状すべからざる悲哀に打たれたり、およそ三十分間ばかり呆然と甲板上に立って四方を見渡すに、見渡すかぎり果しなき大海原にて、島も船も見えぬ事は、余が気絶以前と少しも異らねど、天地の光景はその時より数倍淋しく物凄くなれり、ここはいなかる海上なるや分らぬは云うまでもなく、船は今いかなる方角に向って走りつつあるやも分らず、羅針盤を見んにも羅針盤はすでに砕けたり。
それよりもなお心細きは、今は昼なるや夜なるや分らぬ事なり、時計はとまり、空を眺むるも太陽は見えず、また星も月も見えず、四方は真暗と云うにはあらねども薄暗く、空はあたかも泥をもって塗り込められしがごとくすべての物皆濁れる黄色に見ゆ、さればこそ余は先刻死せる海賊の巨魁《きょかい》を、生ける恐ろしき人間と見誤りしなり。
ああかかる不思議なる光景は世界のどこにありや、余は二三分間黙考せしが、たちまち我ながら驚くごとき絶望の叫声《きょうせい》を発せり。
「永久の夜! 永久の夜!」
永久の夜と云う事がこの地球上にあり得べきや、しかりあり、いまだ見し人はなしと云えど、この地球上―人間の行くあたわざる果に到れば、そこには昼なく常に夜のみと云う事をかつて聞けり。
「オオ永久の夜! 永久の夜!」
余の乗れる帆船「ビアフラ」は、人間の行くあたわずと云う地球の果に向い、永久の夜に包まれて走りおるなり、ああ帆船「ビアフラ」は、余を乗せてどこまで走らんとするか、昔人は云えり、地球の果は一大断崖にて船もしそこに至れば、悪魔の手に引込まれて無限の奈落に陥込《おちこ》むべしと、今はそのような事を信ずる者はあらざれども、地球の果の断崖なると否《いな》とを問わず、余の船は今一刻々々余を死の場所へ導きつつあるなり、シテ見れば余が気絶以前に見たりし夕日は、この世にて太陽を見し最後なりしか、絶望! 絶望! 余はほとんど狂せんとせり、いかにもして地球の果には行きたくなし、それには船を停めざるべからずと、夢中に走って船首に至り、平常ならばとても一人で動かす事も出来ぬ大錨を、双手に抱きあげて海中に投げ込めり、されど猛獣のごとく走れる船を、錨にて停めんとするはなんらの痴愚ぞ、錨は海底に達せざるに、錨綱にフッと切れて、船の走る事いよいよ急なり。
唯一の錨もすでに海底に沈めり、余は絶望のあまり甲板に尻餅つきしが、しばらくして心つけば、余の全身は板のごとくなりいたり、なにゆえぞと問うなかれ、余は先刻よりあまりの驚きと悲しみのために、今まではそれに思い至らざりしが、この辺海上の寒気の激しさよ! 吐《つ》く息もただちに雪となり凍《こうり》とならんばかりにて、全身海水に濡れたる余の衣服は、何時の間にか凍りて板のごとくなりしなり、衣服はすでに甲板に凍りつきて立たんにも容易に立つあたわず、余はむしろこのままに凍え死なん事を望めり、されどまた多少の未練なきにあらず、容易に立つあたわざるを無理に立てば、氷は離れずベリベリと音して衣服は破れたり、露出《むきだ》されたる余の肌に当る風の寒さよ、オオ風と云えば、風はまたますます激しきを増し来りしようなり、海は泡立ち逆巻き、怒濤はふたたび甲板に打ち上げ来って、巨浪《きょろう》は余を呑み去らんとす、風さえ余を吹飛ばさんとす、余はあまりの恐ろしさに堪えず、思わず船底に逃げこめり。
九
船底に逃げこみ、昇降口の蓋《おおい》を閉せば、その陰鬱なる事さながら地獄のごとし、しかり、ここはたしかに地獄なり、余の頭上にあたる甲板上には、今なお身を大檣《たいしょう》に縛《ばく》せるまま死せる人間もあるにあらずや。
船底は前にも云えるがごとく、昇降口の破れ目より打ちこみ来りし海水に濡れて、ほとんど坐るに所もなし、余は何よりも寒さに堪えねば急ぎ衣服を着替えんと余のトランクを開くに、幸い衣服は濡れずにあり、ただちに濡れたるを脱いで新しきを身に着《つ》けしが、二枚や三枚にては到底寒気を防ぐあたわず余はトランク中のすべての衣服を着尽したれど、なお寒さをしのぐあたわず、毛布は着んにもすでに濡れたり、いかがはせんと思案せしが、ヨシヨシ船尾の方にあたる倉庫中には、たしかに船員の衣類があるはずなりと、余はただちにそこに走り、なお消えやらで天井に懸りいたりし船燈を取って倉庫中を捜しまわるに、衣類とては一枚もあらざれど、片隅には燈油箱などと相列んで、数十枚の毛布積み重ねてありたれば、試みに手を触るるに、ここには海水打ちこみ来らざれば濡れてはおらず、天の与えと打喜《うちよろこ》び、ただちに三枚の毛布を重ねて衣服の上にかぶり、ようやく少しく寒気をしのぎたり。
しかるにフト心づけば、余の手に提げたる船燈は、もはや油尽きしものか、青き光ゆらゆらと昇って今にも消えんばかり、この船燈こそ船中に残る唯一の光にて、マッチのごときはことごとく湿りたりと覚えたれば、この火を消しては一大事と、余はあわて狼狽《ふた》めき、慄《ふる》う手に側の燈油を注ぎ入れて、辛くも火を消さずに済みたり、この火消えなば、余は実に暗中に煩悶して、暗中に死すべかりしなり。
火は以前より多少明るくなれり、されど火明るくなりしとて、余に希望の光《ひかり》微見《ほのみ》えしにあらず、余は刻一刻死の場所に近づきつつあるなり、船は瞬間も休まず地球の果に向って走りつつあるなり、ああこの船の行着く先はいずくぞ、今は真珠の多く取れると云う絶島に流れ寄らんなどとは思いもよらず、地球の果には一大氷山ありと云う、その氷山こそが余の最期の場所ならん。
およそ二三十分して余はまた寒気にたえずなれり、今までの着物にてはとてもしのぶあたわず、余はその上にさらに数枚の毛布を重ねたり、毛布を重ねつつ耳を澄ませば、あら不思議! いままでは舷を敲くものはただ波の音のみなりしが、二三分以前より打ち寄する波とともに、たえずゴトンゴトンと舷にあたるものあり、難船の破片か怪獣か、なんにしても訝《いぶか》しき事よと、余は恐くはあれど再び甲板に出でて見れば、天地は依然として昼とも夜とも分らぬ光景なり、余は吹き来る暴風に吹飛ばされてはたまらず、また打上ぐる波に呑去られてはたまらずと、海賊の巨魁《きょかい》が身を縛して死しいる大檣にシカと縋付《すがりつ》いて眺むるに、暗憺《あんたん》な海上には海坊主のごとく漂える幾多の怪物見ゆ眼を定めて見れば、怪物と見えしは、これ小舟のごとき多くの氷塊なり、この氷塊の流れおるを見ても、船のすでに南氷洋の奥深く来りし事を知るに足らん、大氷山ははやまぢかなり、地球の果ははやまぢかなり、余はいかにもしてそこに到らぬ前に船を停めんと苦心焦慮せり。オオこの風! この風! この風を孕《はら》む大檣の帆をすら降さば、船は停止せぬまでもその進行|緩《ゆるや》かにならん、進行の緩かとなるは、それだけ余の死期の遅くなるゆえと、余は仰いで大檣の帆を眺めしが、帆は高くして張り切るばかり、帆綱さえ激しく檣桁《ほげた》に巻きつきたれば、元来水夫にはあらぬ余の、いかでかこの大暴風《おおあらし》に帆を降す事を得べき、熟練せる水夫といえども、この場合|檣《ほばしら》の上一間以上昇らば、魔神のごとき疾風に吹飛ばされて海中に落ちん、かかる疾風に追われて、船はいまじつに想像する事も出来ぬ速力にて走りおるなり、走ると云わんよりは飛べるなり、天空を飛べるか海上を走れるかほとんど分らず、泡立つ波、舞いあがる水煙はあたかも雲ににたり。
十
時にたちまち見る、暗憺たる海上に一道の光ゆらゆらと漂うを、オオ光! 光! この場合光ほど懐かしきものはなし、あれは太陽がふたたび[#「ふたたび」は底本では「ふただび」]我が眼前に現われしかと見直せば、何時の間にかその光は波間に消えて跡もなし、これ南極にときどき現われると云う、海上の燦火《ホスポラス》ならん、余はもはや絶望の声も出でず、かかる間にも船の走る事はますます速く、船の進むにしたがい寒気はいよいよ激しく我身に迫る、余はついにたえずふたたび船底に逃げこみしが、余の腹は飢えたりといえどももはや食を取らんとは思わず、ただちに船尾の倉庫に駆《か》けつけ、あくまで着たるが上にもさらに毛布を重ねたり、されどなお寒さは凌《しの》ぐあたわず、一刻々々あたかも時計の針の刻み込むごとく寒気の増しゆくは、船の一刻々々大氷山に近づくゆえならん、その寒さの増すにしたがい、余はかたわらに、積まれたる毛布を取って、十分に一枚、九分に一枚、八分に一枚、ついには三分間に一枚ずつ重ね、数十枚の毛布《けっと》を着尽したり、今は着るべきものもあらず、身はさながら毛布の山に包まれしがごとく、身動きも出来ずなったれど、寒さはなおやまず、●
いな、以前よりも激しき速度をもって増し来る、肉もちぎれるようなり、骨も凍るようなり、オオこの寒さをいかにして忍ばんと、余は堪えがたき苦痛に、狂うがごとくそのへんを走り回りしが、足はいま中部船底より船首船尾に至らんとせし一刹那なり、あたかも全船砕くるごとき響きとともに、船は急に停止せり、続いてビリビリと船の何物にか乗りあぐる音、波の甲板に打ちあぐる音、風の檣《ほばしら》と闘う音、悽愴《せいそう》とも何んとも云うべからず、余は恐怖のために一時気絶せんとせしが、かくてあるべきにあらず、船の震動ようやく収まりし時、恐る恐る船底より甲板に這い出でて見れば、こはそもいかにこはいかに、前面に天をおおうがごとく聳立《そばた》つは一大氷山なり、余の乗れる船はついに地球の果に達し、今しもこの一大氷山の一角に乗りあげしなり、万事休す! 余は思わず甲板上に身を投げて慟哭せり、されど泣けばとていかでかこの悲境より免るるをえん、しばらくたって余はふたたび甲板上に立ちあがりしに、今は地球の果に来りて、大氷山の陰になりしためにや、風も何時か吹きやみて、船が氷山の一角に乗りあげし時、その余響を受けて荒れまわりし激浪怒濤も、次第々々に静かになり、四辺は急にシーンとせり、人の恐るる地球の果、人間とては余の他には一人もなく、鳥もおらず、獣もおらず、魚すらもおらず、●
実にこの天地間にあって、何の物音も聴えぬと云うほど物凄き事はなし、余は寂寥のためにまず気死《きし》せんとせしが、ようやく気を取直してそろそろ四辺を見まわすに、天地間の暗き事依然として異らざりしか、その暗き間に、余は忽然として一大怪物を見出せり、何等の怪! 何等の奇! 怪物は余が帆船の右舷とほとんど触れんばかりに相列び、その動かざる事山のごとく、その形もまた巨山《おおやま》のごとき黒き物なり、大氷山か? 大氷山か? あらず、大氷山ならば白きはずなり、余は怪訝《いぶかり》にたえず、眼を皿のようにして見詰めしが、暗々陰々《あんあんいんいん》として到底その正体を見究むるあたわず、かかる間にも寒気はますます加わり、もしこのままにてなお十分間を過さば、余はついに凍え死ぬべし、ああいかにしてこの寒さを防《ふせ》がん、数十枚の毛布はすでに着尽したり、もはや着るべきものは一枚もあらず、余は血走る眼《まなこ》に四方を見まわせしが、フト一策の胸に浮ぶやいなや、狂獣のごとく走って船底に飛び降り、いまなお消え残る一個の船燈を取るより早く、燈を砕き油を船中に振撒《ふりま》いて火を放てり、●
悪魔の舌のごとき焔は見る間に船中を這いまわり、続いて渦巻く黒煙とともに猛火は炎々と立ち昇る、余は甲板上に飛出したり、オオ余は我船を焼けり、我船を焼けり、もし地球の果よりふたたび人間世界に帰らんとするな
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