布をかぶって身を横たえしが、胸は異様にとどろいて容易に眠られず、これぞいわゆる虫の知らせと云うものならん。
五
しかし余は一時間とたたぬうちにうつらうつらとなれり、眠れる間は時刻のたつを知らず、いつの間にか真夜半《まよなか》となりしならん、余は夢に恐ろしく高き塔に昇り、籠手《こて》をかざしてあまねく世界を眺めいるうち、フト足踏みすべらして真逆様に落つると見、アッと叫んで眼をさませば、塔より落つると見しは夢なれど、実際余は、初め船底の右舷に眠りいたりしが、いつの間にか左舷にまろびいたるなり。オヤオヤと叫んで立ちあがるに、船底は大波を打つごとく、足許ふらふらとして倒れんとす、さては余の眠れる間に、天候にわかに変り、海上はよほど荒るると見えたり、願わくは波速かに静まれと祈りつつ、ふたたび船底に身を横たえる、途端もあらせず、船は何物かに衝突しけん、凄まじき音して少しく右舷に傾けり、「暗礁! 暗礁!」と余はただちに叫べり、人外境とも云うべきこのような大海原にて、他船に衝突すべしとは覚えねば、余はいかなる暗礁に衝突せしかを見んと、バネのごとく跳ね起き一散走り、足許定まらず幾度かまろばんとするをようやくこらえて、船底と甲板との間にただ一個ある昇降口めざして走りゆくに、その途々《みちみち》余は甲板上に起る異様なる叫び声と、人々の激しく乱れ騒ぐ足音とを聴けり、されどかかる叫声《きょうせい》とかかる足音とは、船が暗礁に乗りあげし時など、常に起る事なれば格別怪しみもせず、やがて船内より甲板上に出ずる梯子に達し、その梯子を昇るも夢中にて、昇降口よりヒョイと甲板上に顔を現わせしが、その時余の驚愕はいかばかりなりしぞ。空には断雲の飛ぶ事矢のごとく、船は今想像もできぬほどの速力をもって、狂風に吹かれ怒濤を浴びつつ走りいるなり、されど余の驚きしはその事にあらず、見よ! 見よ! 断雲の絶間より、幽霊火のごとき星の照らす甲板上には、今しも一団の黒影入り乱れて闘いおるなり、人数およそ二十人ばかり、我が帆船の水夫のみにはあらず、オオ、これ何事ぞ! 何事ぞ! 船は決して暗礁に衝突せしにあらず、先刻何物にか衝突せし響きの聴えしは、これ海賊船がわが船に乗りかけしなり、日の入るころ水天一髪の彼方はるかに、一点の怪しき黒影見えしは、あれこそ恐るべき海賊船なりしならん、今しも海賊はわが船の甲板に乱れ入り、その数およそ十四五人、手に手に兇刃を閃めかして、本船の船長初め七人の水夫を取りかこみ、斬って斬って斬りまくる、血は飛んで瀑布のごとく、見る間にわが水夫の四五人は斬り倒されたり、余はあまりの恐ろしさに思わず昇降口の下に首を縮込めたり。
六
帆船「ビアフラ」の甲板は、今修羅の巷なり、風は猛り波は吼え、世界を覆えす大地震に遭いしがごとき船上にて、入り乱れて闘う海賊と船員との叫び声は、さながら現世《このよ》にて地獄の声を聴くに異らず。
余はあまりの恐ろしさに、一旦甲板上に現わせし首をすっこめ、昇降口の下、梯子の中段に小さくなっていたりしが、耳を澄ませば、船員の叫び声らしきは次第々々に低くなり、狼の吼《ほ》ゆるがごとき海賊の声のみいよいよ鋭くなりゆくに、余は気が気にあらず、いわゆる恐《こわ》いもの見たさに、ふたたびそっと昇降口の蓋《おおい》を開き、星影すごき甲板上を眺むるに、ああなんたる光景ぞや、七人の船員中六人はすでに斬り倒され、生き残れるは船長一人のみ、これすら身に数カ所の重傷を負い、血に染みながら屍と屍の間を逃げまわれば、十数人の海賊は兇刃を閃めかして追いまわす、船長は泣けり叫べり、屍を取って楯となし、しばし必死と防ぎしが、多勢に無勢到底敵するあたわず、大檣《たいしょう》をまわり羅針盤の側を走り、船首より船尾に逃げ行きしが、もはや逃ぐるところどこにもあらず、後よりは兇刃すでに肉薄するに、今はたまらず、身を跳らして、逆巻く波間に飛び込まんとする一刹那、一海賊は猛虎のごとく跳《おど》りかかりヤット一声船長を斬りさげたり、船長の躰《たい》は真二つに割れ、悲鳴を揚ぐるいとまもあらず、パッタリと倒る、血は滾々《こんこん》と流れて、その辺は一面に真紅となれり、あまりの悲劇に、余は船長の倒れると同時に、思わずアッと叫びしが、ああこの声こそ、余のためには大災難の声なりき。
すでに船員の全部を屠りつくして、もはや船中には人なしと思いいたりし海賊等は、余の声を聴き痛く驚きし様子にて此方《こなた》を振り向きしが、余の姿を見出すやいなや、悪鬼のごとき眼を光らして口々に何か叫びながら、切先揃えてドヤドヤと押し寄せ来たり、サア大きなり、捕えられてはたまらぬと、余はただちに昇降口の下に首をすくめ、素早く入口の蓋を閉ざせり、その瞬間海賊等ははや入口の周囲に来り、頭上の床板踏み鳴らす足音も荒々しく狼の吼ゆるがごとく、また猿の叫ぶがごとく罵り騒ぐは、ここ開けよ開けよと云うならん、開けては一大事なり、余は両手を伸ばし、死力を出して下より蓋《おおい》を押えおる、海賊等は上よりこれを引きはなさんとす。幸いこの帆船《ほまえせん》には船底と甲板との間に、この昇降口一個あるのみなれば、ここぞ余のためにはサーモピレーの険要《けんよう》とも云うべく、この険要破れざる限りは、余の生命続かん、生命のあるかぎりは、いかでかここを破らすべきと、余は必死なり、海賊等も必死なり。海賊等は昇降口の容易に開かれざるに、怒り狂い、足をあげて蓋《おおい》を蹴たり、されど蓋《おおい》の表は滑かに、鉄の板一面に張られたれば、なかなか破るるものにあらず。
そのまにも海はますます荒れまさるようにて、帆綱にあたる風の音はピューピューと、波は次第々々に高まりて舷を打つ、かかる大荒れをも恐れず、海賊等は是非ともこの入口を開かんとするなり、やがて余の頭上にあたり、ガチンガチンと異様なる響聴《ひびきのきく》を始めしは、彼等がどこよりか鉄槌を提《ひっさ》げ来り、一気に入口を打ち砕かんとするなるべし、蓋《おおい》を握れる余の手は、その響を受けて非常なる痛みを覚え、鉄槌の下る事七八|度《たび》目《め》にして、余は遂にたええずその手を放てり、たちまち見る入口の一方は砕けたり、仰げば悪鬼のごとき海賊の顔見ゆ、たちまち二三人はその破れ目に手を掛け、嘲笑うがごとき奇声を放って蓋《おおい》を引起せば、蓋《おおい》はギーと鳴って開くこと五寸! 一尺! 一尺五寸、剣《つるぎ》を逆手に握れる海賊の一人は、眼を怒らして余を目懸けて飛び込まんとす、もはや絶対絶命なり、余は思わず呀《あっ》と叫んで船底に逃げ込まんとせしが、その途端! 天地も崩るるがごとき音して、船はたちまち天空に舞い上り、たちまち奈落に沈むがごとく、それと同時に、余は梯子の中段より真逆様に船底に落ち込み、失敗《しまっ》たと叫びしまでは記憶すれど、その後は前後正体もなくなったり。
七
気絶せる間は眠れると同じくまた死せると同じく。時刻のたつを知らず、それより一時間過ぎしか一日過ぎしか、それとも一週間以上過ぎしやを覚えねど、余は夢ともなく現ともなく、ふとしたたかに余の頭を打つ者あるように感じて眼を開けば、余はなお生きてあるなり、心づけば船の動揺はなお止まず、余はある時間の間気絶せる後、またもや打ち寄する巨浪《おおなみ》のために、船は激しく傾き、一方より一方にまろんで頭を打ち、今ようやく息を吹返せるなり、他人が余の頭を打ちしにあらず、余自ら頭を打ちつけしなり、とにもかくにも起きあがってその辺を捜りまわるに、何時の間にか海水は浸入して、余の全身は濡鼠のごとくなりいたり、船底より浸水せしものか、それとも、甲板の昇降口より波打込みしものか分らねど、何しろこの海水のために余の身辺の燈火《ともしび》は消えて四方は真暗く、ただ船内ズット船尾の方に高く掲げられたる一個の船燈のみが、消えなんとしていまだ消えず、薄気味悪き青光をかすかに洩すのみ、時刻も分らず場所も分らず、時計を出して見るに、その針はすでに停まりいたり、余の時計は二日|持《もち》にて、かの悲劇の起る二三時間前に龍頭を巻きたれば、この時計の停まるを見ても余は気絶せるまま少なくも二日以上を過せるものと知らる、それにしても彼の海賊等はいかにせしかと、余は静かに立ちあがって耳を澄ますに、船外には相変らず風荒れ波吼ゆるのみ、されど人声とては少しも聴えざりけり。
余は気味悪さにたえず、何時までも船底に潜みおらんかと思いしが、さりとて海賊等がいかになりしかを知らぬうちは安心できず、ついに意を決し、抜足差足して昇降口の方に向えり、梯子を半ば昇りて耳を澄ますにやはり人声は聴えず、心づけば先刻海賊等が開きかけし蓋《おおい》は、何時の間にか以前のごとく閉ざされてあり、思うに海賊が半ばその蓋《おおい》を引き上げし時、彼の意外なる大震動のために思わずその手を放し、蓋《おおい》はふたたび落ちて以前のごとく昇降口を閉ざせしならん、されど海賊が鉄槌にて打ち砕きし入口の破れ目はそのままにて、そこより海水は船内に打ち込みしなり、鉄の欄干《てすり》も梯子も皆濡れて、油断をすれば余は滑り落ちんとす、今はやや海上静まりしと見え、怒濤の破れ目より打込むような事はなけれど、決して暴風《あらし》のやみしにあらず、船の動揺はなかなか激しくして、時々甲板上に巨浪《おおなみ》の落来る音聴ゆ。
梯子の中段に立ち止まって余は耳を澄ます事|少時《しばし》、ここより上に昇るべきか昇るまじきか、甲板上になお海賊おらば、余はただちに殺されん、されど甲板上の光景を見ぬうちはどうも安心できず、余はついに意を決し、殺さるる覚悟にてふたたび昇り始めぬ。
梯子を昇りつくし、それでもなるべく音の立たぬよう昇降口の蓋《おおい》を開き、じつに恐る恐る半身を突出して甲板上の光景を眺めしが、オオ! オオ! オオ! なんたる甲板上の光景ぞや、余は生れて以来、かくのごとく意外なる光景を見し事なし、定めて甲板上には船員の死屍散乱し、海賊等はなお猛威を振いおる事と思いしに、余の予想はまったく反せり、甲板上は寂寞としてほとんど何物もなし、海賊もおらねば船員の死骸もなし、余はあまりの事に驚きかつ怪しみ、ただちに甲板上に跳り出でてなおよく見るに、甲板上のあらゆる物は破壊され、船員の死骸などは洗去られしものならん、今は血一滴も残りおらず、そのうえ羅針盤は砕かれ、船上にありし二個の端舟《ボート》も海中に呑み込まれ、船首の方に立ちたりし船長室も、そのままどこにか持ち行かれしものならん、影も形もなく、この船は元来三本の檣《ほばしら》を備えしものなるが、その二本はなかほどより折れて、これまた帆とともに行方を知らず、広漠たる船上に残るはただ一本の大檣《たいしょう》のみ、この大檣は甲板の中部にあり、檣上より一面に張られたる帆は、すでにその三分の一以上破れたれど、ものすごき疾風を受けて、船の走る事矢のごとし、余はただ一面の帆にて何故《なにゆえ》に船がかくまで速く走るやを知らず、なに心なく大檣《たいしょう》のそばに近づかんとせしが、フト見ればその大檣《たいしょう》の下には、一個の恐ろしき人間立てり、余は思わず逃げ出したり、逃げながら振返って見るに、彼の人間は余を追わんともせず、依然として身動きもせず立ちしままなり、ハテ不思議なる事かなと、臆病なる余も足を停めてなおよく見れば、追わぬはずなり身動きもせぬはずなり、彼はすでに死して首をガックリ垂れおるにて、その服装より見れば海賊の巨魁《きょかい》ならん、剣を甲板上に投げ棄て、大檣《たいしょう》にその身を厳しく縛りつけいたり、実に合点の行かぬ事ながら、しばらく考えて余はハハアと頷きたり、思うに余が気絶せし瞬間船に大震動を来せしは、海底噴火山の破裂のため、驚くべき巨浪《きょろう》が船上に落来りしか、しからずば船が大龍巻にでも巻き込まれ、甲板上の海賊等は、余を殺すより先に自分等の身が危くなり、一同驚き騒ぐ間に、彼の男は海賊の巨魁だけに素早くその身を大檣に縛りつけ、巨浪に持ち行か
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