南極の怪事
押川春浪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瑠璃岸国《るりがんこく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|背後《うしろ》
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(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
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一
この怪異なる物語をなすにつき、読者諸君にあらかじめ記憶してもらわねばならぬ二つの事がある。その一は近頃ヨーロッパのある学者仲間で、地球の果に何か秘密でも見出さんとするごとく、幾度の失敗にも懲りず、しきりに南極探検船を出しておる事。その二は、いわゆる歴史の黒幕に蔽われたる太古、ぼうとして知るべからざる時代に、今は蛮地と云わるるアフリカ州の西岸、東に限りなき大沙漠を見渡すチュス付近に、古代の文明を集めたる一王国があって、その名は瑠璃岸国《るりがんこく》と口碑に伝えられているが、この国の最も盛んなりし頃、一人の好奇《ものずき》なる国王あり、何か物に感じたことでもあったものと見え、あるとき国中の材木を集めて驚くべき巨船を造り、船内の構造をすべて宮殿のごとく華麗にし、それに古代のあらゆる珍宝貨財と、百人の勇士と百人の美人とを乗せ、世界の諸国を経めぐらんとその国の港を出帆した。しかるにその船が南太平洋の波濤《なみ》にもまれているうち、大暴風にでも遭ったものか、それとも海賊に襲われたものか、まったく行方不明になって、南太平洋の波濤《はとう》は黙して語らず。
「どこにどうなってしまったか」という疑問が、数千年過ぎた今なお残っているという事。この二つの事――すなわち現時ヨーロッパのある学者仲間が、しきりに南極探検船を出しておる事と、古代文明国の一巨船が、永久の疑問を残して行方不明になった事とは、表面の観察では何等の関係もないようだ、イヤこうあらためて書けば、なんだか関係のあるように思う人があろうが、考えてみたまえ、数千年以前の物は、石の柱でも今は全く壊《くず》れてしまったほどだ、いわんや木で造った巨船においておやだ、好奇《ものずき》な学者先生いかに探しまわっても、いまさらそのような物の見つかる道理はあるまい。
しかしこの世のなかには理外の理がある、次の物語を読んだ諸君は、さてもこの世のなかには、そのような秘密――そのような不思議なことがあるかと、眼をまるくして驚くだろう。
二
頃はポルトガル第一の科学者モンテス博士の南極探検船が、ある夜秘密にセントウベス湾を出発した、二カ月ほど以前の事である。あまり人の行かぬデルハ岬の海岸に、二人の奇麗な娘が遊んでおった、二人ともモンテス博士の愛嬢で、景色よき岬の上には博士の別荘があるのだ。
二人の娘は楽しそうに、波打際を徘徊しながら、蟹を追い貝を拾うに余念もなかったが、しばらくして姉娘《あねむすめ》は急に叫んだ。
「あら! 妙なものが流れてきてよ」
妹娘《いもうとむすめ》もその声に驚き、二人肩と肩とを並べて見ていると、今しも打ち寄せる波にもまれて、足許にコロコロと転んできたのは、一個《ひとつ》の真黒なビールの空瓶だ。
「おや、こんな物、仕方がないわ」と、姉娘は織指《せんし》に摘まみあげて、ポンと海中に投げ込んだが、空瓶はふたたび打ち寄せる波にもまれて、すぐまた足許にコロコロと転んできた。
「本当に執拗《しつこ》い空瓶だこと」と、今度は妹娘が拾って投げようとすると、その時|背後《うしろ》の方より、
「二人とも何をしている、拾ったのは何んだ」と呼んだ者がある、振り向いて見ると父のモンテス博士で、ニコニコしながら進みよる。二人とも嬉しそうに、左右からその首に縋《す》がりつき、
「阿父《おとう》様、この瓶、みょうな瓶なんですよ、ちょうど生きているように、幾度投げてもコロコロと――」
「ホー、海員の飲むビールの空瓶だな」と、博士は妹娘の手からその瓶を取って眺めたが、
「これは奇妙だ、この瓶の口栓《キルク》はすでに腐っておる、そのうえ瓶の外に生《む》している海苔《こけ》は、決してこの近海に生ずる物ではない、南洋の海苔《こけ》だ、南洋の海苔《こけ》だ、このような海苔《こけ》の生じているので見ても、この瓶のよほど古い物である事が分る、思うに難破船の甲板からでも投げたものだろう」と、さすがはポルトガル第一の科学者と云わるるほどあって、その着眼がなかなか鋭敏だ。博士は斯《か》く云いつつ、瓶を差し上げて太陽の光線《ひかり》に透かしてみたが、
「オオ、あるある果してみょうな物があるある」と叫んで、好奇心は満面にあふれ、口栓《キルク》を抜くのももどかしと、かたわらの巖石《いわ》をめがけて投げつけると、瓶は微塵に砕け、なかから黄色い紙に何か細々と記した物が出て来た。
博士は急ぎ拾い上げ、鼻眼鏡を取り出して鼻にかけ、眉の間に皺を寄せながら熱心に読み始めた。なにしろ鉛筆の走り書きで、文字も今は朦朧となっているが、読む事数行にして、博士はにわかに愕然たる様子で、
「ホー、怪異《ミラクルス》! 怪異《ミラクルス》! 怪異《ミラクルス》!」と、あたかも一大秘密でも見出せしごとく、すぐさまその黄色い紙を衣袋《かくし》に押し込み、物をも云わず、岬の上の別荘めざして駆け出した。
二人の娘は呆気にとられ、
「阿父様《おとうさま》、なんですなんです」と、その跡を追いかけたが、博士は振り向きもせず、別荘の自分の書室に飛び込むやいなや、扉に鍵をピンとおろし、件《くだん》の不思議なる書面を卓上に押しひろげ、いよいよ深く眉の間に皺を寄せて、ふたたび熱心に読み始めた。
二人の娘は室の外まで押し寄せきたり、鍵のおろされたる扉をコトコトと叩いて、
「阿父様《おとうさま》、何か珍しい事なら聴かせて頂戴《ちょうだい》な、あら鍵なんかおろしてひどいこと――」と呟けど、博士は知らぬ顔、「お前達の聴いても役に立たぬ事だよ」と、一声云ったばかりである。じつに博士は娘にまでも秘密にするほどの事であるが、余は今敬愛なる読者諸君のためにこの書面に書いてある世にも不思議なる出来事を、少しも隠さず紹介する事としよう。
三
書面はまず左のごとき悲壮なる文字をもって始まった。
この瓶もし千尋《ちひろ》の海底に沈まずば、この瓶もし千丈の巖石《がんせき》に砕けずんば、この地球上にある何人《なにびと》かは、何時か世界の果に、一大秘密の横たわる事を知り得べし、余はエスパニアの旅行家ラゴンと云うものなり、世界一周の目的をもって本国を去り、ヨーロッパ、アジア、アメリカの各地を遍歴して、到る処に珍らしき物を見、面白き境遇を経て、ついに来りし処はアフリカ西岸のモロッコ国なり、ここより北に行く船に乗じ、ジブラルタル海峡を渡れば、安全にふたたび本国に帰る事を得べかりしに、余はなんたる痴漢ぞや、ほとんど世界の七分の一を経めぐって、余の好奇心はいまだ満足せず、さらに珍らしき場所に到り、面白き物を見んと、モロッコ国マザガン港より一種異様なる船に乗れり、この船は三本マストの帆前船《ほまえせん》にて、その舷《ふなべり》は青く錆びたる銅をもって張られ、一見してよほど古き船と知らる、船長はアフリカ人にて、色は赤銅《しゃくどう》のごとく、眼は怪星のごとく、灰色の鬚をもって顔の半面をおおわれ、きわめて粗野の人物と見ゆ、その配下《てした》には七人の水夫あり、皆土人にて、立って歩まずば、猛獣かと疑わる、しかし性質は案外温順のようなり。
この船は元来真珠取船にて、アフリカの西岸に沿い、南太平洋を渡って、ほとんど人外境とも云うべき南方に向うものなれば、旅客や貨物を載すべきものにあらず、しかるを余はいかにして便乗せしかと云うに、ちょうどモロッコ国マザガン港の桟橋に達せし時、この異様なる船の桟橋に近く碇泊せるがふと眼に入り、傍人にいかなる船ぞと問えば、真珠取りにと明日はこの港を出帆し、世人の知らざる南方の絶島に行く船なりと云うに余の好奇心はにわかに動きて矢も楯もたまらず、ただちに端舟《はしけ》を漕いでその舷門に至り、言語通ぜねば手真似をもって便乗をこい、船長の拒むをしいて、二百ドルの金貨を握らせ、ようやく便乗を許されしなり。もとより客室など云う気のきいたものはなければ、余は船の最も底の倉庫のごとき処に毛布を敷き、そこを居室兼寝室と定めしも、天気晴朗なる日はそのような薄暗き処に閉じこもる必要なし、余は航海中の多くを風清き甲板上に暮すつもりにて、一日も早く世人の知らざる南方の絶島に着し、真珠取りの面白き光景を見んと、それをのみ唯一の楽しみとせしが、あにはからんやこの船こそ、余のためには魔の船となりけり。
四
この船は名を「ビアフラ」と云う、余は便乗を許されし翌日正午頃マザガン港を出発せり。針路を南に南にと取って、アフリカの西岸にそい、おりから吹く順風に帆は張り切れんばかり、舳に砕くる波は碧海に玉を降らし、快速力は汽船もおよばぬばかりなり。
そもそもアフリカ西岸の航路は、以前はヨーロッパよりアジアに向かう唯一の航路にして、喜望峯を迂回して行く船の幾度《いくたび》か恐しき目に遭いし事は、今なお世人の記憶せる処ならん、しかるにスエズ運河の通じて以来、普通の船舶にてこの航海《こうろ》を取るものはきわめてまれに、長き航海中汽船のごときはほとんど見んとして見るを得ず、ただ三角帆の怪しき漁船の、おりふし波間に隠見せるを望むのみ、昔はこの辺に絶えず海賊横行せりと聞けど、今はかかる者ありとも覚えず。
余は昼に大抵帆船「ビアフラ」の甲板に出で、左に烟《けむり》のごときアフリカ大陸を眺め、右に果しなき大海原を見渡し、夜は月なき限り、早くより船底の寝室に閉じこもって眠る。かかる間にブランコ岬の沖を過ぎ、昔は妖女住みしと云うシエルボロ島の間を抜け、航海三十五日目にして寄港せしはアフリカ南端のテーブル湾なり、ここにて船は飲水食料等を充分に補充し、いよいよ同湾を去ってさらに南へ向えば、もはや右を見るも左を見るも陸の影はなく、振り返れどアフリカ大陸の影さえ消えて、前途は渺茫として水天につらなるのみ、余は何となく心細き感に打たれたり。
かくてアフリカの尖端テーブル湾を去って五日ほど過ぎ、風なぎて船脚きわめて遅くなりし夕暮、余は甲板上の前檣《ぜんしょう》にもたれて四方を見渡すに、眼に入るかぎり船もなく島もなく、ただ気味悪きほどの蒼き波間《なみま》に、一頭の巨鯨の潮ふけるが見ゆるばかり、かかる光景を見ては、いかなる人といえども一種名状すべからざる寂寞の感に打たるるものなり、今船はいかなる状態にていかなる方角に進めるやも分らず、余は意気地なきようなれど、心細さは次第々々にましてついに堪らず、おりから面前に歩み来れる船長に向っていきなりに問えり、「めざす絶島にはいつ達すべきや」と、もとより手真似の問答なればしかとは分らねど、船長は毛だらけの手を前後左右に振って
「達すべき時にあらざれば達せず」と、無愛相に答えしようなり。彼はそのまま行き過ぎる、余はとりつくしまもなし、艫《とも》の方を見れば七人の水夫、舵を取り帆を操りながら口々に何か語り合う、その声あたかも猿のごときが、ふと何物をかみつけけん、同時に話声《わせい》をやめてとある一方に眼を注ぐ、余も思わず釣りこまれて、彼等の眼の向う方角を眺むれば、そこは西南の方水天一髪の辺、かすかにかすかに一点の黒き物見ゆ、巨鳥か、鯨か、船か、島か。島ならばあれこそめざす絶島と思えど、どうも島にてはなきようなり、島にあらずば何か、余はいかにもしてその正体を見届けんと、なおしばらく甲板を去らざりしが、かの黒き物は近づくごとく、近づかざるごとく、そのうちに日はまったく暮れて海上暗くなり、わが船上に一点の燈火輝くのみ、四方の物まったく見えずなりしかば、余は詮方なく、船中に唯一個ある昇降口を下って、船底の寝室に入り、このような時には早く寝ね、夢の間に一夜を過すにかぎると、すぐさま毛
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