らば、この船のほか頼むべき物なきに、ついにこの船を焼けり、余は寒さにたえずして余の生命を焼けるなり、かく心付《こころづ》くとともに、余はあわててその火を消さんとせしが、この火を消さば、余はただちに凍えて死なん、この火のある間がすなわち余の生存期間なり、余の身体はようやく暖かくなれり、されど余の胸のうちは苦悶のために焦《こ》げるようなり、とかくする間に火は船尾の方より甲板上に燃え抜けたり、余は夢中に船尾より船首に向って走る、火はあたかも余の後を追うよう、見る間に甲板上に燃え拡がれり、もはや行くに処なし、寒気のために凍死《こごえし》なんとせし余は、今や猛火のために焼死なんとするなり、余は天に叫べり地に哭《な》けり、眼は独楽《こま》のごとく回転して八方を見まわすに、船を焼く火の光高く燃えあがるにしたがい、暗黒なりし天地もようやく明るくなり、たちまち余の眼に入りしは彼の一大怪物の正体! 炎々天を焦す深紅の焔に照らしてよく見れば、そは古色蒼然たる一種不可思議の巨船なりき、まったく近世においては見るあたわざる古代風の巨船なりき、思うに余の帆船《ほまえせん》と同じようなる運命にて、何時の頃かこの地球の果に押し流されしものならん、今は船中ことごとく氷にとざされて、その動かざる事あたかも巨山のごとし、余は疑えりあやしめり、されどその間にも火勢はますます激しく、余の帆船は今や全部一団の火とならんとす、●
 躊躇せばただちに焼け死なん、余は前後を考うる遑《いとま》もなく、船首甲板の尖端より身を跳らし、ほとんど舷に接せる彼の怪物――一大巨船の上に飛び乗れり、驚くべし! 余は彼の船上に飛び乗りただちに船内に走入って見るに、その船内の華麗《うるわ》しき事あたかも古代の王宮のごとく、近世の人は夢想する事も出来ぬ奇異の珍宝貨財《ちんぽうかざい》眼も眩《げん》するばかりにて、その間には百人の勇士を右に、百人の美人を左に、古代の衣冠を着けたる一人の王は、端然として坐しいたり、余は跳上《おどりあが》って喜べり、オオ生ける人! 生ける人! と、余りの懐かしさにたえずその前に走り寄れば、こはそもいかにこはいかに、彼等はことごとく生ける人にあらず、笑いを含めるあり、六ヶ敷き顔せるありといえども、すべてこれ死してより幾千年をへたるにや、その全身はあたかもミイラのごとく化石しおれり、いな、ミイラにもあらず、●
 化石にもあらず、また凍結せしものとも思われず、このへん地球の果の不可思議なる大気の作用にて、彼の巨船中のものはただに人間のみならず、珍宝も貨財もすべてあらゆる物、昔の形と少しも異《かわ》る処なく、実に美わしき一種の固形体と化して残りおるなり、されど余はそれらの物を眺めおるうちに、真に名状すべからざる寂寞を感じたり、寂寞はやがて恐怖と化せり、もはや長く船内に留まるあたわず、逃ぐるように巨船の甲板上に出て見れば、余の帆船はすでにことごとく一団の火焔となり、火勢はその絶頂を過ぎてこれより漸々《ぜんぜん》下火にならんとす、余は呆然として船首より船尾へと走りしが、炎々《えんえん》と閃めく火光にふとこの巨船の船尾を見れば、そこには古色蒼然たる黄銅をもって、左の数字を記されたり。
『瑠璃岸国の巨船[#「瑠璃岸国の巨船」に白三角傍点]』
『オオ、何等の怪事ぞ!』と余は絶叫せり、余は学者にあらねば詳しき事は知らねど、かねて耳にせる事あり、これ世界の歴史がなお黒幕におおわれたりし時代、アフリカ西岸に古代の文明を集めたる瑠璃岸国のある好奇《ものずき》なる国王が、世界を経めぐらんとの望みを起して一大巨船を造り、百人の勇士と百人の美人と、その当時にあらゆる珍宝貨財とを乗せて本国を発せしが、南太平洋に乗りいりし後まったく行方不明となり、いまなお一大疑問を世界に遺《のこ》せりと云うが、今日余がここに見るこの巨船は、その瑠璃岸国の巨船にはあらざるか、余は数千年以前の巨船がいかなる理由によりて、いまなお現存せるやをしらずといえども、ここに現存せる事だけは事実なり、これには科学上の不可思議なる理由あらん。もしこれが果して瑠璃岸国の巨船なりとせば――嗚呼余は学者にあらざる事を憾《うら》む――この船の発見がいかに古代の文明を今日の世界に紹介し、いかに多くの利益を現世紀以後の学者社会に貢献するかを――されどかかる事は云うだけ無益なり、余は今にもこの世を去るべき身なり、いかにしてもふたたび人間社会に帰るあたわざる身なり、余の乗り来りし帆船《ほまえせん》の燃ゆる火焔の消ゆるとともに、余はこの地球の果においてただちに凍死《こごえし》なん、いな瑠璃岸国の国王並びに勇士美人のごとく、一種異様なるミイラとなって空《むな》しく残らん、今や余の魂は飛び腸《はらわた》は断たんとす、せめてはこの奇怪事を人間世界に知らしめんとて、余はおぼつかなくも鉛筆を取り出し、数葉の黄紙にこの事を記す、●
余の文は拙《せつ》なり、されど万一にもこの秘密にして何時か人間世界に[#「人間世界に」は底本では「人関世界に」]現わるる事あらば、世の学者諸君よ、願わくは死を決してこの南極に探険船を進めよ、じつに世界の一大秘密はここに伏在せるなり、かく記せる間に火焔《ほのお》ははや消えんとす、余の脚は爪先よりすでに凍り始めたり、手の指ももはやきかずなれり、これにて筆を止めん、幸いに余のポケットには今なお残れる一瓶のビールあれば、余はそのビールを末期《まつご》の水として飲み、快くこの世を去らん、しこうしてその空瓶にはこの一書を封じて海中に投ずるなり、もしこの瓶|氷塊《ひょうかい》にも砕けず、海底にも沈まず――オー、オー、オー、火焔はすでに消えたり、もはや一分の猶予もなし、一字も記すあたわず、これにてさらば。
 以上はコルテス博士がポルトガルの海岸にて拾上《ひろいあ》げし、不思議なる瓶中《びんちゅう》より出でし不思議なる書面なり、記者はもはや多く記さず、賢明なる読者諸君は、なにゆえに近頃ヨーロッパの学者社会より、幾度の失敗にも懲りず、しばしば不思議なる南極探検船の派遣せらるるか、その秘密をば知りたもうべし。



底本:「日本SF古典集成〔※[#ローマ数字1、1−13−21]〕」ハヤカワ文庫JA、早川書房
   1977(昭和52)年7月15日発行
初出:「中学世界」博文館
   1905(明治38)年1月号
入力:田中哲郎
校正:山本弘子
2009年4月30日作成
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