《しゆつこう》までは未《ま》だ十|時間《じかん》以上《いじやう》。長《なが》い旅行《りよかう》を行《や》つた諸君《しよくん》はお察《さつ》しでもあらうが、知《し》る人《ひと》もなき異境《ゐきやう》の地《ち》で、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《きしや》や※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》の出發《しゆつぱつ》を待《ま》ち暮《くら》すほど徒然《つまら》ぬものはない、立《た》つて見《み》つ、居《ゐ》て見《み》つ、新聞《しんぶん》や雜誌等《ざつしなど》を繰廣《くりひろ》げて見《み》たが何《なに》も手《て》に着《つ》かない、寧《いつ》そ晝寢《ひるね》せんか、市街《まち》でも散歩《さんぽ》せんかと、思案《しあん》とり/″\窓《まど》に倚《よ》つて眺《なが》めると、眼下《がんか》に瞰《み》おろす子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]灣《わん》、鏡《かゞみ》のやうな海面《かいめん》に泛《うか》んで、出《で》る船《ふね》、入《い》る船《ふね》[#「船《ふね》」は底本では「般《ふね》」]停泊《とゞま》つて居《ゐ》る船《ふね》、其《その》船々《ふね/″\》の甲板《かんぱん》の模樣《もやう》や、檣上《しやうじやう》に飜《ひるがへ》る旗章《はたじるし》や、また彼方《かなた》の波止塲《はとば》から此方《こなた》へかけて奇妙《きめう》な風《ふう》の商舘《しやうくわん》の屋根《やね》などを眺《なが》め廻《まわ》しつゝ、たゞ譯《わけ》もなく考想《かんが》へて居《を》る内《うち》にふと思《おも》ひ浮《うか》んだ一事《こと》がある。それは濱島武文《はまじまたけぶみ》といふ人《ひと》の事《こと》で。
濱島武文《はまじまたけぶみ》とは私《わたくし》がまだ高等學校《かうとうがくかう》に居《を》つた時分《じぶん》、左樣《さやう》かれこれ十二三|年《ねん》も前《まへ》の事《こと》であるが、同《おな》じ學《まな》びの友《とも》であつた。彼《かれ》は私《わたくし》よりは四つ五つの年長者《としかさ》で、從《したがつ》て級《くみ》も異《ちが》つて居《を》つたので、始終《しじう》交《まぢは》るでもなかつたが、其頃《そのころ》校内《かうない》で運動《うんどう》の妙手《じやうず》なのと無暗《むやみ》に冐險的旅行《ぼうけんてきりよかう》の嗜好《すき》なのとで、彼《かれ》と私《わたくし》とは指《ゆび》を折《を》られ、從《したがつ》て何《なに》ゆゑとなく睦《むつ》ましく離《はな》れがたく思《おも》はれたが、其後《そのゝち》彼《かれ》は學校《がくかう》を卒業《そつぎやう》して、元來《ぐわんらい》ならば大學《だいがく》に入《い》る可《べ》きを、他《た》に大望《たいもう》ありと稱《しよう》して、幾何《いくばく》もなく日本《ほんごく》を去《さ》り、はじめは支那《シナ》に遊《あそ》び、それから歐洲《をうしう》を渡《わた》つて、六七|年《ねん》以前《いぜん》の事《こと》、或《ある》人《ひと》が佛京巴里《フランスパリ》の大博覽會《だいはくらんくわい》で、彼《かれ》に面會《めんくわい》したとまでは明瞭《あきらか》だが、私《わたくし》も南船北馬《なんせんほくば》の身《み》の其後《そのゝち》の詳《つまびらか》なる消息《せうそく》を耳《みゝ》にせず、たゞ風《かぜ》のたよりに、此頃《このごろ》では、伊太利《イタリー》のさる繁華《はんくわ》なる港《みなと》に宏大《りつぱ》な商會《しやうくわい》を立《た》てゝ、專《もつぱ》ら貿易事業《ぼうえきじげふ》に身《み》を委《ゆだ》ねて居《を》る由《よし》、おぼろながらに傳《つた》へ聞《き》くのみ。
伊太利《イタリー》の繁華《はんくわ》なる港《みなと》といへば、此處《こゝ》は國中《こくちう》隨一《ずゐいち》の名港《めいかう》子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]、埠頭《はとば》から海岸通《かいがんどう》りへかけて商館《しやうくわん》の數《かず》も幾百千《いくひやくせん》、もしや濱島《はまじま》は此《この》港《みなと》で、其《その》商會《しやうくわい》とやらを營《いとな》んで居《を》るのではあるまいかと思《おも》ひ浮《うか》んだので、實《じつ》に雲《くも》を掴《つか》むやうな話《はなし》だが、萬《まん》が一もと旅亭《やどや》の主人《しゆじん》を呼《よ》んで聽《き》いて見《み》ると、果然《くわぜん》! 主人《しゆじん》は私《わたくし》の問《とひ》を終《みな》まで言《い》はせず、ポンと禿頭《はげあたま》を叩《たゝ》いて、
『オヽ、濱島《はまじま》さん※[#疑問符感嘆符、1−8−77] よく存《ぞん》じて居《をり》ますよ、雇人《やとひにん》が一千|人《にん》もあつて、支店《してん》の數《かず》も十の指《ゆび》――ホー、其《その》お宅《たく》ですか、それは斯《か》う行《い》つて、あゝ行《い》つて。』と口《くち》と手眞似《てまね》で窓《まど》から首《くび》を突出《つきだ》して
『あれ/\、あそこに見《み》へる宏壯《りつぱ》な三|階《がい》の家《いへ》!』
天外《てんぐわい》萬里《ばんり》の異邦《ゐほう》では、初對面《しよたいめん》の人《ひと》でも、同《おな》じ山河《やまかは》の生《うま》れと聞《き》けば懷《なつ》かしきに、まして昔馴染《むかしなじみ》の其人《そのひと》が、現在《げんざい》此《この》地《ち》にありと聞《き》いては矢《や》も楯《たて》も堪《たま》らない、私《わたくし》は直《す》ぐと身仕度《みじたく》を整《とゝの》へて旅亭《やどや》を出《で》た。
旅亭《やどや》の禿頭《はげあたま》に教《をし》へられた樣《やう》に、人馬《じんば》の徃來《ゆきゝ》繁《しげ》き街道《かいだう》を西《にし》へ/\と凡《およ》そ四五|町《ちやう》、唯《と》ある十字街《よつかど》を左《ひだり》へ曲《まが》つて、三|軒目《げんめ》の立派《りつぱ》な煉瓦造《れんぐわづく》りの一構《ひとかまへ》、門《かど》に |T. Hamashima《はまじまたけぶみ》, と記《しる》してあるのは此處《こゝ》と案内《あんない》を乞《こ》ふと、直《す》ぐ見晴《みはら》しのよい一室《ひとま》に通《とう》されて、待《ま》つ程《ほど》もなく靴音《くつおと》高《たか》く入《い》つて來《き》たのはまさしく濱島《はまじま》! 十|年《ねん》相《あひ》見《み》ぬ間《ま》に彼《かれ》には立派《りつぱ》な八字髯《はちじひげ》も生《は》へ、其《その》風采《ふうさい》も餘程《よほど》變《ちが》つて居《を》るが相變《あひかは》らず洒々落々《しや/\らく/\》の男《おとこ》『ヤァ、柳川君《やながはくん》か、これは珍《めづ》らしい、珍《めづ》らしい。』と下《した》にも置《お》かぬ待遇《もてなし》、私《わたくし》は心《しん》から※[#「りっしんべん+喜」、第4水準2−12−73]《うれ》しかつたよ。髯《ひげ》は生《は》へても友達《ともだち》同士《どうし》の間《あひだ》は無邪氣《むじやき》なもので、いろ/\の話《はなし》の間《あひだ》には、昔《むかし》倶《とも》に山野《さんや》に獵暮《かりくら》して、※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、6−5]《あやまつ》て農家《ひやくしやうや》の家鴨《あひる》を射殺《ゐころ》して、辛《から》き目《め》に出逢《であ》つた話《はなし》や、春季《はる》の大運動會《だいうんどうくわい》に、彼《かれ》と私《わたくし》とはおの/\級《くみ》の撰手《チヤンピオン》となつて、必死《ひつし》に優勝旗《チヤンピオンフラグ》を爭《あらそ》つた事《こと》や、其他《そのほか》さま/″\の懷舊談《くわいきうだん》も出《で》て、時《とき》の移《うつ》るのも知《し》らなかつたが、ふと氣付《きづ》くと、當家《このや》の模樣《もやう》が何《なに》となく忙《いそ》がし相《さう》で、四邊《あたり》の部室《へや》では甲乙《たれかれ》の語《かた》り合《あ》ふ聲《こゑ》喧《かまびす》しく、廊下《ろうか》を走《はし》る人《ひと》の足音《あしおと》もたゞならず速《はや》い、濱島《はまじま》は昔《むかし》から極《ご》く沈着《ちんちやく》な人《ひと》で、何事《なにごと》にも平然《へいぜん》と構《かま》へて居《を》るから夫《それ》とは分《わか》らぬが、今《いま》珈琲《カツヒー》を運《はこ》んで來《き》た小間使《こまづかひ》の顏《かほ》にも其《その》忙《いそ》がしさが見《み》へるので、若《も》しや、今日《けふ》は不時《ふじ》の混雜中《こんざつちう》ではあるまいかと氣付《きづ》いたから、私《わたくし》は急《きふ》に顏《かほ》を上《あ》げ
『何《なに》かお急《いそ》がしいのではありませんか。』と問《と》ひかけた。
『イヤ、イヤ、决《けつ》して御心配《ごしんぱい》なく。』と彼《かれ》は此時《このとき》珈琲《カツヒー》を一口《ひとくち》飮《の》んだが、悠々《ゆう/\》と鼻髯《びぜん》を捻《ひね》りながら
『何《なに》ね、實《じつ》は旅立《たびだ》つ者《もの》があるので。』
オヤ、何人《どなた》が何處《どこ》へと、私《わたくし》が問《と》はんとするより先《さき》に彼《かれ》は口《くち》を開《ひら》いた。
『時《とき》に柳川君《やながはくん》、君《きみ》は當分《たうぶん》此《この》港《みなと》に御滯在《おとまり》でせうねえ、それから、西班牙《イスパニヤ》の方《はう》へでもお廻《まは》りですか、それとも、更《さら》に歩《ほ》を進《すゝ》めて、亞弗利加《アフリカ》探險《たんけん》とでもお出掛《でか》けですか。』
『アハヽヽヽ。』と私《わたくし》は頭《つむり》を掻《か》いた。
『つい昔話《むかしばなし》の面白《おもしろ》さに申遲《まうしおく》れたが、實《じつ》は早急《さつきふ》なのですよ、今夜《こんや》十一|時《じ》半《はん》の※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》で日本《くに》へ皈《かへ》る一方《いつぱう》なんです。』
『えい、君《きみ》も?。』と彼《かれ》は眼《め》を見張《みは》つて。
『矢張《やはり》今夜《こんや》十一|時《じ》半《はん》出帆《しゆつぱん》の弦月丸《げんげつまる》で?。』
『左樣《さやう》、殘念《ざんねん》ながら、西班牙《イスパニヤ》や、亞弗利加《アフリカ》の方《はう》は今度《こんど》は斷念《だんねん》しました。』と、私《わたくし》がキツパリと答《こた》へると、彼《かれ》はポンと膝《ひざ》を叩《たゝ》いて
『やあ、奇妙《きめう》々々。』
何《なに》が奇妙《きめう》なのだと私《わたくし》の審《いぶか》る顏《かほ》を眺《なが》めつゝ、彼《かれ》は言《ことば》をつゞけた。
『何《な》んと奇妙《きめう》ではありませんか、これ等《ら》が天《てん》の紹介《ひきあはせ》とでも云《い》ふものでせう、實《じつ》は私《わたくし》の妻子《さいし》も、今夜《こんや》の弦月丸《げんげつまる》で日本《につぽん》へ皈國《かへり》ますので。』
『え、君《きみ》の細君《さいくん》と御子息《ごしそく》※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』と私《わたくし》は意外《いぐわい》に※[#「口+斗」、8−11]《さけ》んだ。十|年《ねん》も相《あひ》見《み》ぬ間《あひだ》に、彼《かれ》に妻子《さいし》の出來《でき》た事《こと》は何《なに》も不思議《ふしぎ》はないが、實《じつ》は今《いま》の今《いま》まで知《し》らなんだ、况《いは》んや其人《そのひと》が今《いま》本國《ほんごく》へ皈《かへ》るなどゝは全《まつた》く寢耳《ねみゝ》に水《みづ》だ。
濱島《はまじま》は聲《こゑ》高《たか》く笑《わら》つて
『はゝゝゝゝ。君《きみ》はまだ私《わたくし》の妻子《さいし》を御存《ごぞん》じなかつたのでしたね。これは失敬《しつけい》々々。』と急《いそが》はしく呼鈴《よびりん》を鳴《な》らして、入《いり》來《きた》つた小間使《こまづかひ》に
『あのね、奧《おく》さんに珍《めづ》らしいお客樣《きやくさま》が……。』と言《い》つたまゝ私《わたくし》の方《はう》
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