先刻《せんこく》は見送《みおく》られた吾等《われら》は今《いま》は彼等《かれら》を此《この》船《ふね》より送《おく》り出《いだ》さんと、私《わたくし》は右手《めて》に少年《せうねん》を導《みちび》き、流石《さすが》に悄然《せうぜん》たる春枝夫人《はるえふじん》を扶《たす》けて甲板《かんぱん》に出《で》ると、今宵《こよひ》は陰暦《いんれき》十三|夜《や》、深碧《しんぺき》の空《そら》には一|片《ぺん》の雲《くも》もなく、月《つき》は浩々《かう/\》と冴《さ》え渡《わた》りて、加《くは》ふるに遙《はる》かの沖《おき》に停泊《ていはく》して居《を》る三四|艘《そう》の某《ぼう》國《こく》軍艦《ぐんかん》からは、始終《しじゆう》探海電燈《サーチライト》をもつて海面《かいめん》を照《てら》して居《を》るので、其《その》明《あきらか》なる事《こと》は白晝《まひる》を欺《あざむ》くばかりで、波《なみ》のまに/\浮沈《うきしづ》んで居《を》る浮標《ブイ》の形《かたち》さへいと明《あきらか》に見《み》える程《ほど》だ。
濱島《はまじま》は船《ふね》の舷梯《げんてい》まで到《いた》つた時《とき》、今《いま》一|度《ど》此方《こなた》を振返《ふりかへ》つて、夫人《ふじん》とその愛兒《あいじ》との顏《かほ》を打眺《うちなが》めたが、何《なに》か心《こゝろ》にかゝる事《こと》のあるが如《ごと》く私《わたくし》に瞳《ひとみ》を轉《てん》じて
『柳川君《やながはくん》、然《さ》らば之《これ》にてお別《わか》れ申《まう》すが、春枝《はるえ》と日出雄《ひでを》の事《こと》は何分《なにぶん》にも――。』と彼《かれ》は日頃《ひごろ》の豪壯《がうさう》なる性質《せいしつ》には似合《にあ》はぬ迄《まで》、氣遣《きづか》はし氣《げ》に、恰《あだか》も何者《なにもの》か空中《くうちゆう》に力強《ちからつよ》き腕《うで》のありて、彼《かれ》を此《この》塲《ば》に捕《とら》へ居《を》るが如《ごと》くいとゞ立去《たちさ》り兼《か》ねて見《み》へた。之《これ》が俗《ぞく》に謂《い》ふ虫《むし》の知《し》らせとでもいふものであらうかと、後《のち》に思《おも》ひ當《あた》つたが、此時《このとき》はたゞ離別《りべつ》の情《じやう》さこそと思《おも》ひ遣《や》るばかりで、私《わたくし》は打點頭《うちうなづ》き『濱島君《はまじまくん》よ、心豐《こゝろゆた》かにいよ/\榮《さか》え玉《たま》へ、君《きみ》が夫人《ふじん》と愛兒《あいじ》の御身《おんみ》は、此《この》柳川《やながは》の生命《いのち》にかけても守護《しゆご》しまいらすべし。』と答《こた》へると彼《かれ》は莞爾《につこ》と打笑《うちえ》み、こも/″\三人《みたり》と握手《あくしゆ》して、其儘《そのまゝ》舷梯《げんてい》を降《くだ》り、先刻《せんこく》から待受《まちう》けて居《を》つた小蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《こじやうきせん》に身《み》を移《うつ》すと、小蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《こじやうきせん》は忽《たちま》ち波《なみ》を蹴立《けた》てゝ、波止塲《はとば》の方《かた》へと歸《かへ》つて行《ゆ》く、其《その》仇浪《あだなみ》の立騷《たちさわ》ぐ邊《ほとり》海鳥《かいてう》二三|羽《ば》夢《ゆめ》に鳴《な》いて、うたゝ旅客《たびゞと》の膓《はらわた》を斷《た》つばかり、日出雄少年《ひでをせうねん》は無邪氣《むじやき》である
『あら、父君《おとつさん》は單獨《ひとり》で何處《どこ》へいらつしやつたの、もうお皈《かへ》りにはならないのですか。』と母君《はゝぎみ》の纎手《て》に依《よ》りすがると春枝夫人《はるえふじん》は凛々《りゝ》しとはいひ、女心《をんなごゝろ》のそゞろに哀《あはれ》を催《もよほ》して、愁然《しゆうぜん》と見送《みおく》る良人《をつと》の行方《ゆくかた》、月《つき》は白晝《まひる》のやうに明《あきらか》だが、小蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《こじようきせん》の形《かたち》は次第々々《しだい/\》に朧《おぼろ》になつて、殘《のこ》る煙《けむり》のみぞ長《なが》き名殘《なごり》を留《とゞ》めた。
『夫人《おくさん》、すこし、甲板《デツキ》の上《うへ》でも逍遙《さんぽ》して見《み》ませうか。』と私《わたくし》は二人《ふたり》を誘《いざな》つた。かく氣《き》の沈《しづ》んで居《を》る時《とき》には、賑《にぎ》はしき光景《くわうけい》にても眺《なが》めなば、幾分《いくぶん》か心《こゝろ》を慰《なぐさ》むる因《よすが》ともならんと考《かんが》へたので、私《わたくし》は兩人《ふたり》を引連《ひきつ》れて、此時《このとき》一|番《ばん》に賑《にぎ》はしく見《み》え
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