中部《ちゆうぶ》の船室《キヤビン》は最《もつと》も多《おほ》く人《ひと》の望《のぞ》む所《ところ》である。何故《なぜ》かと言《い》へば航海中《かうかいちゆう》船《ふね》の動搖《どうえう》を感《かん》ずる事《こと》が比較的《ひかくてき》に少《すく》ない爲《ため》で、此《この》室《へや》を占領《せんりやう》する爲《ため》には虎鬚《とらひげ》の獨逸人《ドイツじん》や、羅馬風《ローマンスタイル》の鼻《はな》の高《たか》い佛蘭西人等《フランスじんとう》に隨分《ずゐぶん》競爭者《きようそうしや》が澤山《たくさん》あつたが、幸《さいはひ》にもネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]市《し》中《ちゆう》で「富貴《ふうき》なる日本人《につぽんじん》。」と盛名《せいめい》隆々《りう/\》たる濱島武文《はまじまたけぶみ》の特別《とくべつ》なる盡力《じんりよく》があつたので、吾等《われら》は遂《つひ》に此《この》最上《さいじやう》の船室《キヤビン》を占領《せんりやう》する事《こと》になつた。加《くわ》ふるに春枝夫人《はるえふじん》、日出雄少年《ひでをせうねん》の部室《へや》と私《わたくし》の部室《へや》とは直《す》ぐ隣合《となりあ》つて居《を》つたので萬事《ばんじ》に就《つ》いて都合《つがう》が宜《よ》からうと思《おも》はるゝ。
私《わたくし》は元來《ぐわんらい》膝栗毛的《ひざくりげてき》の旅行《りよかう》であるから、何《なに》も面倒《めんだう》はない、手提革包《てさげかばん》一個《ひとつ》を船室《キヤビン》の中《なか》へ投込《なげこ》んだまゝ直《す》ぐ春枝夫人等《はるえふじんら》の船室《キヤビン》へ訪《おと》づれた。此時《このとき》夫人《ふじん》は少年《せうねん》を膝《ひざ》に上《の》せて、其《その》良君《をつと》や他《ほか》の三人《みたり》を相手《あひて》に談話《はなし》をして居《を》つたが、私《わたくし》の姿《すがた》を見《み》るより
『おや、もうお片附《かたづき》になりましたの。』といつて嬋娟《せんけん》たる姿《すがた》は急《いそ》ぎ立《た》ち迎《むか》へた。
『なあに、柳川君《やながはくん》には片附《かたづ》けるやうな荷物《にもつ》もないのさ。』と濱島《はまじま》は聲《こゑ》高《たか》く笑《わら》つて『さあ。』とすゝめた倚子《ゐす》によつて、私《わたくし》も此《この》仲間《なかま》入《いり》。最早《もはや》袂別《わかれ》の時刻《じこく》も迫《せま》つて來《き》たので、いろ/\の談話《はなし》はそれからそれと盡《つ》くる間《ま》も無《な》かつたが、兎角《とかく》する程《ほど》に、ガラン、ガラ、ガラン、ガラ、と船中《せんちゆう》に布《ふ》れ廻《まは》る銅鑼《どら》の響《ひゞき》が囂《かまびす》しく聽《きこ》えた。
『あら、あら、あの音《おと》は――。』と日出雄少年《ひでをせうねん》は眼《め》をまん丸《まる》にして母君《はゝぎみ》の優《やさ》しき顏《かほ》を仰《あふ》ぐと、春枝夫人《はるえふじん》は默然《もくねん》として、其《その》良君《をつと》を見《み》る。濱島武文《はまじまたけぶみ》は靜《しづ》かに立上《たちあが》つて
『もう、袂別《おわかれ》の時刻《じこく》になつたよ。』と他《た》の三人《みたり》を顧見《かへりみ》た。
すべて、海上《かいじやう》の規則《きそく》では、船《ふね》の出港《しゆつかう》の十|分《ぷん》乃至《ないし》十五|分《ふん》前《まへ》に、船中《せんちう》を布《ふ》れ廻《まは》る銅鑼《どら》の響《ひゞき》の聽《きこ》ゆると共《とも》に本船《ほんせん》を立去《たちさ》らねばならぬのである。で、濱島《はまじま》は此時《このとき》最早《もはや》此《この》船《ふね》を去《さ》らんとて私《わたくし》の手《て》を握《にぎ》りて袂別《わかれ》の言葉《ことば》厚《あつ》く、夫人《ふじん》にも二言《ふたこと》三言《みこと》云《い》つた後《のち》、その愛兒《あいじ》をば右手《めて》に抱《いだ》き寄《よ》せて、其《その》房々《ふさ/″\》とした頭髮《かみのけ》を撫《な》でながら
『日出雄《ひでを》や、汝《おまへ》と父《ちゝ》とは、之《これ》から長時《しばらく》の間《あひだ》別《わか》れるのだが、汝《おまへ》は兼々《かね/″\》父《ちゝ》の言《い》ふやうに、世《よ》に俊《すぐ》れた人《ひと》となつて――有爲《りつぱ》な海軍士官《かいぐんしくわん》となつて、日本帝國《につぽんていこく》の干城《まもり》となる志《こゝろ》を忘《わす》れてはなりませんよ。』と言《い》ひ終《をは》つて、少年《せうねん》が默《だま》つて點頭《うなづ》くのを笑《え》まし氣《げ》に打《う》ち見《み》やりつゝ、他《た》の三人《みたり》を促《うなが》して船室《キヤビン》を出《で》た。
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