たとへ迷信《めいしん》でも、其《その》主人《しゆじん》の身《み》の上《うへ》を慮《おも》ふこと斯《か》くまで深《ふか》く、かくも眞面目《まじめ》で居《を》る者《もの》を、無下《むげ》に嘲笑《けな》すでもあるまいと氣付《きづ》いたので、込《こ》み上《あ》げて來《く》る可笑《をかし》さを無理《むり》に怺《こら》えて
『亞尼《アンニー》!。』と一聲《いつせい》呼《よ》びかけた。
『亞尼《アンニー》! お前《まへ》の言《い》ふ事《こと》はよく分《わか》つたよ、其《その》忠實《ちうじつ》なる心《こゝろ》をば御主人樣《ごしゆじんさま》も奧樣《おくさま》もどんなにかお悦《よろこ》びだらう、けれど――。』と彼女《かのぢよ》の顏《かほ》を眺《なが》め
『けれどお前《まへ》の言《い》ふ事《こと》は、みんな昔《むかし》の話《はなし》で、今《いま》では魔《ま》の日《ひ》も祟《たゝり》の日《ひ》も無《な》くなつたよ。』
『あゝ、貴方《あなた》も矢張《やはり》お笑《わら》ひなさるのですか。』と亞尼《アンニー》はいと情《なさけ》なき顏《かほ》に眼《まなこ》を閉《と》ぢた。
『いや、决《けつ》して笑《わら》ふのではないが、其事《そのこと》は心配《しんぱい》するには及《およ》ばぬよ、奧樣《おくさま》も日出雄少年《ひでをせうねん》も、私《わたし》が生命《いのち》にかけて保護《ほご》して上《あ》げる。』と言《い》つたが、亞尼《アンニー》は殆《ほと》んど絶望《ぜつぼう》極《きはま》りなき顏《かほ》で
『あゝ、もう無益《だめ》だよ/\。』とすゝり泣《な》きしながら、むつく[#「むつく」に傍点]と立上《たちあが》り
『神樣《かみさま》、佛樣《ほとけさま》、奧樣《おくさま》と日出雄樣《ひでをさま》の御身《おんみ》をお助《たす》け下《くだ》さい。』と叫《さけ》んだ儘《まゝ》、狂氣《きやうき》の如《ごと》くに走《はし》り去《さ》つた。
丁度《ちやうど》此時《このとき》、休憩所《きうけいしよ》では乘船《のりくみ》の仕度《したく》も整《とゝの》つたと見《み》へ、濱島《はまじま》の頻《しき》りに私《わたくし》を呼《よ》ぶ聲《こゑ》が聽《きこ》えた。
第三回 怪《あやし》の船《ふね》
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銅鑼の響――ビール樽の船長――白色の檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
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春枝夫人《はるえふじん》と、日出雄少年《ひでをせうねん》と、私《わたくし》とが、多《おほく》の身送人《みおくりにん》に袂別《わかれ》を告《つ》げて、波止塲《はとば》から凖備《ようい》の小蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《こじようきせん》で、遙《はる》かの沖合《おきあひ》に停泊《ていはく》して居《を》る弦月丸《げんげつまる》に乘組《のりく》んだのは其《その》夜《よ》十|時《じ》※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、25−2]《す》ぎ三十|分《ぷん》。濱島武文《はまじまたけぶみ》と、他《ほか》に三人《みたり》の人《ひと》は本船《ほんせん》まで見送《みおく》つて來《き》た。
此《この》弦月丸《げんげつまる》といふのは、伊太利《イタリー》の東方※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船會社《とうはうきせんくわいしや》の持船《もちふね》で、噸數《とんすう》六千四百。二|本《ほん》の煙筒《えんとう》に四|本《ほん》檣《マスト》の頗《すこぶ》る巨大《きよだい》な船《ふね》である、此度《このたび》支那《シナ》及《およ》び日本《につぽん》の各港《かくかう》へ向《むか》つての航海《こうかい》には、夥《おびたゞ》しき鐵材《てつざい》と、黄金《わうごん》眞珠等《しんじゆなど》少《すく》なからざる貴重品《きちやうひん》を搭載《たうさい》して居《を》る相《さう》で、其《その》船脚《ふなあし》も餘程《よほど》深《ふか》く沈《しづ》んで見《み》えた。
弦月丸《げんげつまる》の舷梯《げんてい》へ達《たつ》すると、私共《わたくしども》の乘船《じやうせん》の事《こと》は既《すで》に乘客《じやうきやく》名簿《めいぼ》で分《わか》つて居《を》つたので、船丁《ボーイ》は走《はし》つて來《き》て、急《いそが》はしく荷物《にもつ》を運《はこ》ぶやら、接待員《せつたいゐん》は恭《うや/\》しく帽《ぼう》を脱《だつ》して、甲板《かんぱん》に混雜《こんざつ》せる夥多《あまた》の人《ひと》を押分《おしわけ》るやらして、吾等《われら》は導《みちび》かれて船《ふね》の中部《ちゆうぶ》に近《ちか》き一|等《とう》船室《せんしつ》に入《い》つた。どの※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》でも左樣《さう》だが、同《おな》じ等級《とうきふ》の船室《キヤビン》の中《うち》でも、
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