た船首《せんしゆ》の方《かた》へ歩《ほ》を移《うつ》した。
最早《もはや》、出港《しゆつかう》の時刻《じこく》も迫《せま》つて居《を》る事《こと》とて、此邊《このへん》は仲々《なか/\》の混雜《こんざつ》であつた。輕《かろ》き服裝《ふくさう》せる船丁等《ボーイら》は宙《ちう》になつて驅《か》けめぐり、逞《たく》ましき骨格《こつかく》せる夥多《あまた》の船員等《せんゐんら》は自己《おの》が持塲《もちば》/\に列《れつ》を作《つく》りて、後部《こうぶ》の舷梯《げんてい》は既《すで》に引揚《ひきあ》げられたり。今《いま》しも船首甲板《せんしゆかんぱん》に於《お》ける一等運轉手《チーフメート》の指揮《しき》の下《した》に、はや一|團《だん》の水夫等《すいふら》は捲揚機《ウインチ》の周圍《しゆうゐ》に走《は》せ集《あつま》つて、次《つぎ》の一|令《れい》と共《とも》に錨鎖《べうさ》を卷揚《まきあ》げん身構《みがまへ》。船橋《せんけう》の上《うへ》にはビール樽《だる》のやうに肥滿《ひまん》した船長《せんちやう》が、赤《あか》き頬髯《ほゝひげ》を捻《ひね》りつゝ傲然《がうぜん》と四|方《はう》を睥睨《へいげい》して居《を》る。私《わたくし》は三々五々《さん/\ごゞ》群《むれ》をなして、其處此處《そここゝ》に立《た》つて居《を》る、顏色《いろ》の際立《きはだ》つて白《しろ》い白耳義人《ベルギーじん》や、「コスメチツク」で鼻髯《ひげ》を劍《けん》のやうに塗《ぬ》り固《かた》めた佛蘭西《フランス》の若紳士《わかしんし》や、あまりに酒《さけ》を飮《の》んで酒《さけ》のために鼻《はな》の赤《あか》くなつた獨逸《ドイツ》の陸軍士官《りくぐんしくわん》や、其他《そのほか》美人《びじん》の標本《へうほん》ともいふ可《べ》き伊太利《イタリー》の女俳優《をんなはいゆう》や、色《いろ》の無暗《むやみ》に黒《くろ》い印度《インド》邊《へん》の大富豪《おほがねもち》の船客等《せんきやくら》の間《あひだ》に立交《たちまじら》つて、此《この》目醒《めざ》ましき光景《くわうけい》を見廻《みまは》しつゝ、春枝夫人《はるえふじん》とくさ/″\の物語《ものがたり》をして居《を》つたが、此時《このとき》不意《ふい》にだ、實《じつ》に不意《ふい》に私《わたくし》の背部《うしろ》で、『や、や、や、しまつたゾ。』と一度《いちど》に※[#「口+斗」、32−5]《さけ》ぶ水夫《すゐふ》の聲《こゑ》、同時《どうじ》に物《もの》あり、甲板《かんぱん》に落《お》ちて微塵《みじん》に碎《くだ》けた物音《ものおと》のしたので、私《わたくし》は急《いそ》ぎ振返《ふりかへ》つて見《み》ると、其處《そこ》では今《いま》しも、二三の水夫《すゐふ》が滑車《くわつしや》をもつて前檣《ぜんしやう》高《たか》く掲《かゝ》げんとした一個《いつこ》の白色燈《はくしよくとう》――それは船《ふね》が航海中《かうかいちゆう》、安全《あんぜん》進航《しんかう》の表章《ひやうしよう》となるべき球形《きゆうけい》の檣燈《しやうとう》が、何《なに》かの機會《はづみ》で糸《いと》の縁《えん》を離《はな》れて、檣上《しやうじやう》二十|呎《フヒート》ばかりの所《ところ》から流星《りうせい》の如《ごと》く落下《らくか》して、あはやと言《い》ふ間《ま》に船長《せんちやう》が立《た》てる船橋《せんけう》に衝《あた》つて、燈《とう》は微塵《みじん》に碎《くだ》け、燈光《とうくわう》はパツと消《き》える、船長《せんちやう》驚《おどろ》いて身《み》を躱《かわ》す拍子《へうし》に足《あし》踏滑《ふみすべ》らして、船橋《せんけう》の階段《かいだん》を二三|段《だん》眞逆《まつさかさま》に落《お》ちた。水夫《すゐふ》共《ども》は『あツ』とばかり顏《かほ》の色《いろ》を變《かへ》た。船長《せんちやう》は周章《あは》てゝ起上《おきあが》つたが、怒氣《どき》滿面《まんめん》、けれど自己《おの》が醜態《しゆうたい》に怒《おこ》る事《こと》も出來《でき》ず、ビール樽《だる》のやうな腹《はら》に手《て》を當《あ》てゝ、物凄《ものすご》い眼《まなこ》に水夫《すゐふ》共《ども》を睨《にら》み付《つ》けると、此時《このとき》私《わたくし》の傍《かたはら》には鬚《ひげ》の長《なが》い、頭《あたま》の禿《はげ》た、如何《いか》にも古風《こふう》らしい一個《ひとり》の英國人《エイこくじん》が立《た》つて居《を》つたが、此《この》活劇《ありさま》を見《み》るより、ぶるぶる[#「ぶるぶる」に傍点]と身慄《みぶるひ》して
『あゝ、あゝ、縁起《えんぎ》でもない、南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》! 此《この》船《ふね》に惡魔《あくま》が魅《みいつ》て居《ゐ》なければよいが。』と呟《つぶや》
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