《ゆ》く人《ひと》を送《おく》るかの如《ごと》く、頻《しき》りに涙《なみだ》を流《なが》して居《を》る。
私《わたくし》は何故《なぜ》ともなく異樣《ゐやう》に感《かん》じた。
『オヤ、亞尼《アンニー》がまた詰《つま》らぬ事《こと》を考《かんが》へて泣《な》いて居《を》りますよ。』と、春枝夫人《はるえふじん》は良人《おつと》の顏《かほ》を眺《なが》めた。
頓《やが》て、此《この》集會《つどひ》も終《をは》ると、十|時《じ》間近《まぢか》で、いよ/\弦月丸《げんげつまる》へ乘船《のりくみ》の時刻《じこく》とはなつたので、濱島《はまじま》の一家族《いつかぞく》と、私《わたくし》とは同《おな》じ馬車《ばしや》で、多《おほく》の人《ひと》に見送《みおく》られながら波止塲《はとば》に來《きた》り、其邊《そのへん》の或《ある》茶亭《ちやてい》に休憇《きうけい》した、此處《こゝ》で彼等《かれら》の間《あひだ》には、それ/\袂別《わかれ》の言《ことば》もあらうと思《おも》つたので、私《わたくし》は氣轉《きてん》よく一人《ひとり》離《はな》れて波打際《なみうちぎは》へと歩《あゆ》み出《だ》した。
此時《このとき》にふと心付《こゝろつ》くと、何者《なにもの》か私《わたくし》の後《うしろ》にこそ/\と尾行《びかう》して來《く》る樣子《やうす》、オヤ變《へん》だと振返《ふりかへ》る、途端《とたん》に其《その》影《かげ》は轉《まろ》ぶが如《ごと》く私《わたくし》の足許《あしもと》へ走《はし》り寄《よ》つた。見《み》ると、こは先刻《せんこく》送別《そうべつ》の席《せき》で、只《たゞ》一人《ひとり》で泣《な》いて居《を》つた亞尼《アンニー》と呼《よ》べる老女《らうぢよ》であつた。
『おや、お前《まへ》は。』と私《わたくし》は歩行《あゆみ》を止《と》めると、老女《らうぢよ》は今《いま》も猶《な》ほ泣《な》きながら
『賓人《まれびと》よ、お|願《ねが》ひで厶《ござ》ります。』と兩手《りやうて》を合《あは》せて私《わたくし》を仰《あほ》ぎ見《み》た。
『お前《まへ》は亞尼《アンニー》とか云《い》つたねえ、何《なん》の用《よう》かね。』と私《わたくし》は靜《しづ》かに問《と》ふた。老女《らうぢよ》は虫《むし》のやうな聲《こゑ》で『賓人《まれびと》よ。』と暫時《しばし》私《わたくし》の顏《かほ》を眺《なが》めて居《を》つたが
『あの、妾《わたくし》の奧樣《おくさま》と日出雄樣《ひでをさま》とは今夜《こんや》の弦月丸《げんげつまる》で、貴方《あなた》と御同道《ごどうだう》に日本《につぽん》へ御出發《ごしゆつぱつ》になる相《さう》ですが、それを御|延《の》べになる事《こと》は出來《でき》ますまいか。』と恐《おそ》る/\口《くち》を開《ひら》いたのである。ハテ、妙《めう》な事《こと》を言《い》ふ女《をんな》だと私《わたくし》は眉《まゆ》を顰《ひそ》めたが、よく見《み》ると、老女《らうぢよ》は、何事《なにごと》にか痛《いた》く心《こゝろ》を惱《なや》まして居《を》る樣子《やうす》なので、私《わたくし》は逆《さか》らはない
『左樣《さう》さねえ、もう延《の》ばす事《こと》は出來《でき》まいよ。』と輕《かろ》く言《い》つて
『然《しか》し、お前《まへ》は何故《なぜ》其樣《そんな》に嘆《なげ》くのかね。』と言葉《ことば》やさしく問《と》ひかけると、此《この》一言《いちごん》に老女《らうぢよ》は少《すこ》しく顏《かほ》を擡《もた》げ
『實《じつ》に賓人《まれびと》よ、私《わたくし》はこれ程《ほど》悲《かな》しい事《こと》はありません。はじめて奧樣《おくさま》や日出雄樣《ひでをさま》が、日本《にほん》へお皈《かへ》りになると承《うけたまは》つた時《とき》は本當《ほんたう》に魂消《たまぎ》えましたよ、然《しか》しそれは致方《いたしかた》もありませんが、其後《そのゝち》よく承《うけたまは》ると、御出帆《ごしゆつぱん》の時日《じじつ》は時《とき》もあらうに、今夜《こんや》の十一|時《じ》半《はん》……。』といひかけて唇《くちびる》をふるはし
『あの、あの、今夜《こんや》十一|時《じ》半《はん》に御出帆《ごしゆつぱん》になつては――。』
『何《なに》、今夜《こんや》の※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》で出發《しゆつぱつ》すると如何《どう》したのだ。』と私《わたくし》は眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。亞尼《アンニー》は胸《むね》の鏡《かゞみ》に手《て》を當《あ》てゝ
『私《わたくし》は神樣《かみさま》に誓《ちか》つて申《まう》しますよ、貴方《あなた》はまだ御存《ごぞん》じはありますまいが、大變《たいへん》な事《こと》があります。此事《
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