》んだと思《おも》ふ頃《ころ》、一個《いつこ》の泉《いづみ》の傍《そば》へ來《き》た。清《きよ》らかな水《みづ》が滾々《こん/\》と泉《いづ》み流《なが》れて、其邊《そのへん》の草木《くさき》の色《いろ》さへ一段《いちだん》と麗《うる》はしい、此處《こゝ》で一休憩《ひとやすみ》と腰《こし》をおろしたのは、かれこれ午後《ごゝ》の五|時《じ》近《ちか》く、不思議《ふしぎ》なる響《ひゞき》は漸《やうや》く近《ちか》くなつた。
日出雄少年《ひでをせうねん》は、其《その》泉《いづみ》の流《ながれ》に美麗《びれい》なる小魚《こざかな》を見出《みいだ》したとて、魚《うを》を追《お》ふに餘念《よねん》なき間《あひだ》、私《わたくし》は唯《と》ある大樹《たいじゆ》の蔭《かげ》に横《よこたは》つたが、いつか睡魔《すいま》に襲《おそ》はれて、夢《ゆめ》となく現《うつゝ》となく、いろ/\の想《おもひ》に包《つゝ》まれて居《を》る時《とき》、不意《ふい》に少年《せうねん》は私《わたくし》の膝《ひざ》に飛皈《とびかへ》つた。『大變《たいへん》よ/\、叔父《おぢ》さん、猛獸《まうじう》が/\。』と私《わたくし》の肩《かた》に手《て》を掛《か》けて搖《ゆ》り醒《さま》す。
『猛獸《まうじう》がツ。』と私《わたくし》は夢《ゆめ》から飛起《とびを》きた。
少年《せうねん》の指《ゆびさ》す方《かた》を眺《なが》めると如何《いか》にも大變《たいへん》! 先刻《せんこく》吾等《われら》の通※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、141−6]《つうくわ》して來《き》た黄乳樹《わうにうじゆ》の林《はやし》の中《あひだ》より、一頭《いつとう》の猛獸《まうじう》が勢《いきほい》鋭《するど》く現《あら》はれて來《き》たのである。
『猛狒《ゴリラ》!。』と私《わたくし》の身《み》の毛《け》は一時《いちじ》に彌立《よだ》つたよ。
世《よ》に獅子《しゝ》が猛烈《まうれつ》だの、狼《おほかみ》が兇惡《きようあく》だのといつて、此《この》猛狒《ゴリラ》ほど恐《おそ》ろしい動物《どうぶつ》はまたとあるまい、動物園《どうぶつゑん》の鐵《てつ》の檻《おり》の中《なか》に居《を》る姿《すがた》でも、一見《いつけん》して戰慄《せんりつ》する程《ほど》の兇相《あくさう》、それが此《この》深林《しんりん》の中《なか》で襲來《しふらい》したのだから堪《たま》らない。私《わたくし》はハツト思《おも》つて一時《いちじ》は遁出《にげだ》さうとしたが、今更《いまさら》遁《に》げたとて何《なん》の甲斐《かひ》があらう、もう絶體絶命《ぜつたいぜつめい》と覺悟《かくご》した時《とき》、猛狒《ゴリラ》はすでに目前《もくぜん》に切迫《せつぱく》した。身長《みのたけ》七|尺《しやく》に近《ちか》く、灰色《はいいろ》の毛《け》は針《はり》の如《ごと》く逆立《さかだ》ち、鋭《するど》き爪《つめ》を現《あら》はして、スツと屹立《つゝた》つた有樣《ありさま》は、幾百十年《いくひやくじふねん》の星霜《せいさう》を此《この》深林《しんりん》に棲暮《すみくら》したものやら分《わか》らぬ。猛惡《まうあく》なる猴《さる》の本性《ほんしやう》として、容易《ようゐ》に手《て》を出《だ》さない、恰《あだか》も嘲《あざけ》る如《ごと》く、怒《いか》るが如《ごと》く、其《その》黄色《きいろ》い齒《は》を現《あら》はして、一聲《いつせい》高《たか》く唸《うな》つた時《とき》は、覺悟《かくご》の前《まへ》とはいひ乍《なが》ら、私《わたくし》は頭《あたま》から冷水《ひやみづ》を浴《あ》びた樣《やう》に戰慄《せんりつ》した、けれど今更《いまさら》どうなるものか。私《わたくし》は日出雄少年《ひでをせうねん》を背部《うしろ》に庇護《かば》つて、キツと猛狒《ゴリラ》の瞳孔《ひとみ》を睨《にら》んだ。すべて如何《いか》なる惡獸《あくじゆう》でも、人間《にんげん》の眼光《がんくわう》が鋭《するど》く其《その》面《めん》に注《そゝ》がれて居《を》る間《あひだ》は、决《けつ》して危害《きがい》を加《くわ》へるものでない、其《その》眼《め》の光《ひかり》が次第々々《しだい/\》に衰《おとろ》へて、頓《やが》て茫乎《ぼんやり》とした虚《すき》を窺《うかゞ》つて、只《たゞ》一息《ひといき》に飛掛《とびかゝ》るのが常《つね》だから、私《わたくし》は今《いま》喰殺《くひころ》されるのは覺悟《かくご》の前《まへ》だが、どうせ死《し》ぬなら徒《たゞ》は死《し》なぬぞ、斯《か》く睨合《にらみあ》つて居《を》る間《あひだ》に、先方《せんぱう》に卯《う》の毛《け》の虚《すき》でもあつたなら、機先《きせん》に此方《こなた》から飛掛《とびかゝ》つて、多少《たせう》の痛《いた》さは見《み》せ
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