巨大《おほき》な魚《うを》で、殆《ほと》んど端艇《たんてい》の二分《にぶん》の一《いち》を塞《ふさ》いでしまつた。
『まあ、醜《みにく》い魚《さかな》です事《こと》。』と少年《せうねん》は氣味惡《きみわる》相《さう》に、其《その》堅固《けんご》なる魚頭《かしら》を叩《たゝ》いて見《み》た。
『はゝゝゝゝ。酷《ひど》い目《め》に逢《あ》つたよ。然《しか》しこれで當分《たうぶん》餓死《うゑじに》する氣遣《きづかひ》はない。』と私《わたくし》は直《たゞ》ちに小刀《ナイフ》を取出《とりだ》した。勿論《もちろん》沙魚《ふか》といふ魚《さかな》は左程《さほど》美味《びみ》なものではないが、此《この》塲合《ばあひ》にはいくら[#「いくら」に傍点]喰《く》つても喰足《くひた》らぬ心地《こゝち》。
『日出雄《ひでを》さん、餘《あんま》りやると胃《ゐ》を損《そん》じますよ。』と氣遣《きづかひ》顏《がほ》の私《わたくし》さへ、其《その》生臭《なまくさ》い肉《にく》を口中《こうちう》充滿《いつぱい》に頬張《ほうば》つて居《を》つたのである。
此《この》大漁獲《だいりよう》があつたので、明日《あす》からは餓死《うゑじに》の心配《しんぱい》はないと思《おも》ふと、人間《にんげん》は正直《せうじき》なもので、其《その》夜《よ》の夢《ゆめ》はいと安《やす》く、朝《あさ》の寢醒《ねざめ》も何時《いつ》になく胸《むね》穩《おだやか》であつた。
其《その》翌日《よくじつ》は、漂流《へうりう》以來《いらい》はじめて少《すこ》し心《こゝろ》が落付《おちつ》いて、例《れい》の雨水《あめみづ》を飮《の》み、沙魚《ふか》の肉《にく》に舌皷《したつゞみ》打《う》ちつゝ、島影《しまかげ》は無《な》きか、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》の煙《けむり》は見《み》へぬかと始終《しじう》氣《き》を配《くば》る、けれど此《この》日《ひ》は何物《なにもの》も眼《まなこ》を遮《さへぎ》るものとてはなく、其《その》翌日《よくじつ》も、空《むな》しく蒼渺《さうびやう》たる大海原《おほうなばら》の表面《ひやうめん》を眺《なが》むるばかりで、たゞ我《わが》端艇《たんてい》は沙魚《ふか》の爲《ため》に前《まへ》の潮流《てうりう》を引出《ひきい》だされ、今《いま》は却《かへつ》て反對流《はんたいりう》とて、今度《こんど》は西南《せいなん》から東方《とうほう》に向《むか》ひ、マルヂヴエ[#「マルヂヴエ」に二重傍線]群島《ぐんとう》の邊《へん》から南方《なんほう》に向《むか》つて走《はし》るなる、一層《いつそう》流勢《ながれ》の速《はや》い潮流《てうりう》に吸込《すひこ》まれて居《を》ると覺《さと》つた時《とき》、思《おも》はず驚愕《おどろき》の聲《こゑ》を發《はつ》した事《こと》と、甞《かつ》て物《もの》の本《ほん》で讀《よ》んだ夥《おびたゞ》しき鯨《くぢら》の群《むれ》を遙《はるか》の海上《かいじやう》に眺《なが》めた事《こと》の他《ほか》は、何《なに》の變《かは》つた事《こと》もない。勿論《もちろん》、今《いま》の境涯《きやうがい》とて决《けつ》して平和《へいわ》な境涯《きやうがい》ではないが、すでに腹《はら》に充分《じゆうぶん》の力《ちから》があるので、※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、129−11]《すぐ》る日《ひ》よりは餘程《よほど》元氣《げんき》もよく、赫々《かく/\》たる熱光《ねつくわう》の下《した》、日出雄少年《ひでをせうねん》は私《わたくし》の顏《かほ》を見詰《みつ》めて『おや/\、叔父《おぢ》さんは何時《いつ》の間《ま》にか、黒奴《くろんぼ》になつてしまつてよ。』と自分《じぶん》の顏《かほ》は自分《じぶん》には見《み》えず、昨日《きのふ》の美少年《びせうねん》も、今《いま》は日《ひ》に燒《や》け、潮風《しほかぜ》に吹《ふ》かれて、恰《あだか》も炭團屋《たどんや》の長男《ちやうなん》のやうになつた事《こと》には氣《き》の付《つ》かぬ無邪氣《むじやき》さ、只更《ひたすら》私《わたくし》の顏《かほ》を指《ゆびさ》し笑《わら》つたなど、苦《くる》しい間《あひだ》にも隨分《ずいぶん》滑※[#「(禾+尤)/上/日」、130−5]《こつけい》な話《はなし》だ。其日《そのひ》も暮《く》れ、翌日《よくじつ》は來《きた》つたが矢張《やはり》水《みづ》や空《そら》なる大洋《たいやう》の面《おもて》には、一點《いつてん》の島影《しまかげ》もなく、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》の煙《けむり》も見《み》えぬのである。
然《しか》るに茲《こゝ》に一大《いちだい》事件《じけん》が起《おこ》つた。それは他《ほか》でもない、吾等《われら》が生命《せいめい》
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