《かた》ると少年《せうねん》も大賛成《だいさんせい》、勿論《もちろん》釣道具《つりどうぐ》は無《な》いが、幸《さひわひ》にも艇中《ていちう》には端艇《たんてい》を本船《ほんせん》に引揚《ひきあ》げる時《とき》に使用《しよう》する堅固《けんご》なる鐵鎖《てつぐさり》と、それに附屬《ふぞく》して鉤形《つりばりがた》の「Hook《フツク》」が殘《のこ》つて居《を》つたので、それを外《はづ》して、鉤《フツク》に只今《たゞゐま》の小鰺《こあぢ》を貫《つらぬ》いてやをら立上《たちあが》つた。天涯《てんがい》渺茫《べうぼう》たる絶海《ぜつかい》の魚族《ぎよぞく》は、漁夫《ぎよふ》の影《かげ》などは見《み》た事《こと》もないから、釣《つ》れるとか釣《つ》れぬとかの心配《しんぱい》は入《い》らぬ、けれど餘《あま》りに巨大《きよだい》なるは、端艇《たんてい》を覆《くつが》へす懼《おそれ》があるので今《いま》しも右舷《うげん》間近《まぢか》に泳《およ》いで來《き》た三四|尺《しやく》の沙魚《ふか》、『此奴《こいつ》を。』と投込《なげこ》む餌《え》の浪《なみ》に沈《しづ》むか沈《しづ》まぬに、私《わたくし》は『やツ。しまつた。』と絶叫《ぜつけう》したよ。海中《かいちう》の魚族《ぎよぞく》にも、優勝劣敗《ゆうしやうれつぱい》の數《すう》は免《まぬ》かれぬと見《み》へ、今《いま》小《ちいさ》い沙魚《ふか》の泳《およ》いで[#「泳《およ》いで」は底本では「泳《およ》いて」]居《を》つた波《なみ》の底《そこ》には、驚《おどろ》く可《べ》き巨大《きよだい》の一|尾《び》が居《を》りて、稻妻《いなづま》の如《ごと》く躰《たい》を跳《をど》らして、只《たゞ》一|口《くち》に私《わたくし》の釣《つり》ばりを呑《の》んでしまつたのだ。忽《たちま》ち、潮《うしほ》は泡立《あわだ》ち、波《なみ》は逆卷《さかま》いて、其邊《そのへん》海嘯《つなみ》の寄《よ》せた樣《やう》な光景《くわうけい》、私《わたくし》は一生懸命《いつせうけんめい》に鐵鎖《てつさ》を握《にぎ》り詰《つ》めて、此處《こゝ》千番《せんばん》に一番《いちばん》と氣《き》を揉《も》んだ。もとより斯《かゝ》る巨魚《きよぎよ》の暴《あ》れ狂《くる》ふ事《こと》とてとても、引上《ひきあ》げる[#「引上《ひきあ》げる」は底本では「引上《ひきあ》ける」]どころの騷《さわぎ》でない、※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、126−10]《あやま》てば端艇《たんてい》諸共《もろとも》海底《かいてい》に引込《ひきこ》まれんず有樣《ありさま》、けれど此時《このとき》此《この》鐵鎖《くさり》が如何《どう》して放《はな》たれやうぞ、沙魚《ふか》が勝《か》つか、私《わたくし》が負《ま》けるか、釣《つ》れると釣《つ》れぬは生死《せいし》の分《わか》れ目《め》、日出雄少年《ひでをせうねん》は眼《め》をまんまるにして、此《この》凄《すさ》まじき光景《くわうけい》を眺《なが》めて居《を》つたが、可憐《かれん》の姿《すがた》は後《うしろ》から私《わたくし》を抱《いだ》き
『オヽ、危《あぶな》い事《こと》! 危《あぶな》い事《こと》!。』と叫《さけ》ぶ。
『なに、なに、大丈夫《だいじようぶ》! 大丈夫《だいじようぶ》!。』と私《わたくし》は眞赤《まつか》になつて仁王《にわう》の如《ごと》く屹立《つゝた》つた。兎角《とかく》する間《ま》に今迄《いまゝで》は、其邊《そのへん》を縱横《じゆうわう》に暴廻《あれまわ》つて居《を》つた沙魚《ふか》は、其《その》氣味惡《きみわる》き頭《かしら》を南方《みなみのかた》に向《む》けて、恰《あだか》も矢《や》を射《ゐ》るやうに駛《かけ》り出《だ》した。端艇《たんてい》も共《とも》に曳《ひ》かれて、疾風《しつぷう》のやうに駛《はし》るのである。私《わたくし》はいよ/\必死《ひつし》だ。
『さあ、斯《か》うなつたら逃《にが》す事《こと》でないぞ。』と最早《もはや》腹《はら》の空《むな》しい事《こと》も、命《いのち》の危險《あぶない》な事《こと》も、悉皆《すつかり》忘《わす》れてしまつた。兎角《とかく》して約《およそ》三|時間《じかん》ばかりは、狂《くる》ひ走《はし》る沙魚《ふか》のために曳《ひ》かれて、いつしか潮《うしほ》の流《ながれ》をも脱《だつ》し、沙魚《ふか》の領海《りようかい》からはすでに十四五|海里《かいり》も距《へだた》つたと思《おも》ふ頃《ころ》、流石《さすが》に猛惡《まうあく》なる魚《うを》も遂《つひ》に疲勞《つか》れ斃《たを》れて、其《その》眞白《ましろ》なる腹部《はら》を逆《さかさま》に海面《かいめん》に泛《うか》んだ。ほつと一息《ひといき》、引上《ひきあ》げて見《み》ると、思《おも》つたより
前へ
次へ
全151ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
押川 春浪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング