に向直《むきなほ》り
『實《じつ》は斯《か》うなんですよ。』と小膝《こひざ》を進《すゝ》めた。
『私《わたくし》が此《この》港《みなと》へ貿易商會《ぼうえきしやうくわい》を設立《たて》た翌々年《よく/\とし》の夏《なつ》、鳥渡《ちよつと》日本《につぽん》へ皈《かへ》りました。其頃《そのころ》君《きみ》は暹羅《サイアム》漫遊中《まんゆうちゆう》と承《うけたまは》つたが、皈國中《きこくちゆう》、或《ある》人《ひと》の媒介《なかだち》で、同郷《どうきやう》の松島海軍大佐《まつしまかいぐんたいさ》の妹《いもと》を妻《つま》に娶《めと》つて來《き》たのです。これは既《すで》に十|年《ねん》から前《まへ》の事《こと》で、其後《そのゝち》に生《うま》れた兒《こ》も最早《もはや》八歳《はつさい》になりますが、さて、私《わたくし》の日頃《ひごろ》の望《のぞみ》は、自分《じぶん》は斯《か》うして、海外《かいぐわい》に一商人《いつしやうにん》として世《よ》に立《た》つて居《を》るものゝ、小兒《せうに》丈《だ》けはどうか日本帝國《につぽんていこく》の干城《まもり》となる有爲《りつぱ》な海軍々人《かいぐん/″\じん》にして見《み》たい、夫《それ》につけても、日本人《にほんじん》の子《こ》は日本《にほん》の國土《こくど》で教育《けういく》しなければ從《したがつ》て愛國心《あいこくしん》も薄《うす》くなるとは私《わたくし》の深《ふか》く感《かん》ずる所《ところ》で、幸《さいは》ひ妻《つま》の兄《あに》は本國《ほんこく》で相當《さうたう》の軍人《ぐんじん》であれば、其人《そのひと》の手許《てもと》に送《おく》つて、教育《けういく》萬端《ばんたん》の世話《せわ》を頼《たの》まうと、餘程《よほど》以前《いぜん》から考《かんが》へて居《を》つたのですが、どうも然《しか》る可《べ》き機會《きくわい》を得《え》なかつた。然《しか》るに今月《こんげつ》の初旬《はじめ》、本國《ほんごく》から届《とゞ》いた郵便《ゆうびん》によると、妻《つま》の令兄《あに》なる松島海軍大佐《まつしまかいぐんたいさ》は、兼《かね》て帝國軍艦高雄《ていこくぐんかんたかを》の艦長《かんちやう》であつたが、近頃《ちかごろ》病氣《びやうき》の爲《た》めに待命中《たいめいちゆう》の由《よし》、勿論《もちろん》危篤《きとく》といふ程《ほど》の病氣《びやうき》ではあるまいが、妻《つま》も唯《たゞ》一人《ひとり》の兄《あに》であれば、能《あた》ふ事《こと》なら自《みづか》ら見舞《みまひ》もし、久《ひさし》ぶりに故山《こざん》の月《つき》をも眺《なが》めたいとの願望《ねがひ》、丁度《ちやうど》小兒《せうに》のこともあるので、然《しか》らば此《この》機會《をり》にといふので、二人《ふたり》は今夜《こんや》の十一|時《じ》半《はん》の弦月丸《げんげつまる》で出發《しゆつぱつ》といふ事《こと》になつたのです。無論《むろん》、妻《つま》は大佐《たいさ》の病氣《びやうき》次第《しだい》で早《はや》かれ遲《おそ》かれ歸《かへ》つて來《き》ますが、兒《こ》は永《なが》く/\――日本帝國《につぽんていこく》の天晴《あつぱ》れ軍人《ぐんじん》として世《よ》に立《た》つまでは、芙蓉《ふよう》の峯《みね》の麓《ふもと》を去《さ》らせぬ積《つもり》です。』と、語《かた》り終《をは》つて、彼《かれ》は靜《しづ》かに私《わたくし》の顏《かほ》を眺《なが》め
『で、君《きみ》も今夜《こんや》の御出帆《ごしゆつぱん》ならば、船《ふね》の中《なか》でも、日本《につぽん》へ皈《かへ》つて後《のち》も、何呉《なにく》れ御面倒《ごめんどう》を願《ねが》ひますよ。』
此《この》話《はなし》で何事《なにごと》も分明《ぶんめい》になつた。それに就《つ》けても濱島武文《はまじまたけぶみ》は昔《むかし》ながら壯快《おもしろ》い氣象《きしやう》だ、たゞ一人《ひとり》の兒《こ》を帝國《ていこく》の軍人《ぐんじん》に養成《ようせい》せんが爲《た》めに恩愛《おんあい》の覊《きづな》を斷切《たちき》つて、本國《ほんごく》へ送《おく》つてやるとは隨分《ずゐぶん》思《おも》ひ切《き》つた事《こと》だ。また松島海軍大佐《まつしまかいぐんたいさ》の令妹《れいまい》なる彼《かれ》の夫人《ふじん》にはまだ面會《めんくわい》はせぬが、兄君《あにぎみ》の病床《やまひ》を見舞《みま》はんが爲《た》めに、暫時《しばし》でも其《その》良君《おつと》に別《わかれ》を告《つ》げ、幼《いとけな》き兒《こ》を携《たづさ》へて、浪風《なみかぜ》荒《あら》き萬里《ばんり》の旅《たび》に赴《おもむ》くとは仲々《なか/\》殊勝《しゆしよう》なる振舞《ふるまひ》よと、心《こゝろ》竊《ひそ》かに感服《かんぷく》
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