《めて》にシカと抱《いだ》いて居《を》つた。けれど夫人《ふじん》の姿《すがた》は見《み》えない『春枝夫人《はるえふじん》、々々。』と聲《こゑ》を限《かぎ》りに呼《よ》んで見《み》たが應《こたへ》がない、只《たゞ》一度《いちど》遙《はる》か/\の波間《なみま》から、微《かす》かに答《こたへ》のあつた樣《やう》にも思《おも》はれたが、それも浪《なみ》の音《おと》やら、心《こゝろ》の迷《まよ》ひやら、夫人《ふじん》の姿《すがた》は遂《つひ》に見出《みいだ》す事《こと》が出來《でき》なかつたのである、私《わたくし》は幼少《えうせう》の頃《ころ》から、水泳《すいえい》には極《きは》めて達《たつ》して居《を》つたので、容易《ようゐ》に溺《おぼ》れる樣《やう》な氣遣《きづかひ》はない、日出雄少年《ひでをせうねん》を抱《いだ》き一個《いつこ》の浮標《ブイ》を力《ちから》に、一時《ひとゝき》ばかり海中《かいちう》に浸《ひた》つて居《を》つたが、其内《そのうち》に救助《すくひ》を求《もと》むる人《ひと》の聲《こゑ》も聽《きこ》えずなり、其《その》身《み》も弦月丸《げんげつまる》の沈沒《ちんぼつ》した處《ところ》より餘程《よほど》遠《とうざ》かつた樣子《やうす》、不意《ふゐ》に日出雄少年《ひでをせうねん》が『あら黒《くろ》い物《もの》が。』と叫《さけ》ぶので、愕《おどろ》いて頭《つむり》を上《あ》げると、今《いま》しも一個《いつこ》の端艇《たんてい》が前方《ぜんぽう》十四五ヤードの距離《へだゝり》に泛《うか》んで居《を》る、之《これ》は先刻《せんこく》多人數《たにんずう》が乘《の》つた爲《ため》に、轉覆《てんぷく》した中《うち》の一艘《いつさう》であらう。近《ちか》づいて見《み》ると艇中《ていちう》には一個《いつこ》の人影《ひとかげ》もなく、海水《かいすい》は艇《てい》の半《なか》ばを滿《みた》して居《を》るが、何《なに》は兎《と》もあれ天《てん》の助《たすけ》と打《うち》よろこび、少年《せうねん》をば浮標《ブイ》に托《たく》し、私《わたくし》は舷側《げんそく》に附《つ》いて泳《およ》ぎながら、一心《いつしん》に海水《かいすい》を酌出《くみだ》し、曉《あかつき》の頃《ころ》になつて漸《やうや》く水《みづ》も盡《つ》きたので、二人《ふたり》は其《その》中《なか》に入《い》り、今《いま》は何處《いづく》と目的《めあて》もなく、印度洋《インドやう》の唯中《たゞなか》を浪《なみ》のまに/\漂流《たゞよ》つて居《を》るのである。

    第九回 大海原《おほうなばら》の小端艇《せうたんてい》
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亞尼《アンニー》の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
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 恐《おそろ》しき一夜《いちや》は遂《つひ》に明《あ》けた。東《ひがし》の空《そら》が白《しら》んで來《き》て、融々《うらゝか》なる朝日《あさひ》の光《ひかり》が水平線《すいへいせん》の彼方《かなた》から、我等《われら》の上《うへ》を照《てら》して來《く》るのは昨日《きのふ》に變《かは》らぬが、變《かは》り果《は》てたのは二人《ふたり》の境遇《みのうへ》である。昨日《きのふ》までは、弦月丸《げんげつまる》の美麗《びれい》なる船室《キヤビン》に暮《くら》して、目醒《めさ》むると第《だい》一に甲板《かんぱん》に走《はし》り出《で》て、曉天《あかつき》の凉《すゞ》しき風《かぜ》に吹《ふ》かれながら、いと心地《こゝち》よく眺《なが》めた海《うみ》の面《おも》も、今《いま》の身《み》にはたゞ物凄《ものすご》く見《み》ゆるのみである。眼界《がんかい》の達《たつ》する限《かぎ》り煙波《えんぱ》渺茫《べうぼう》たる印度洋《インドやう》中《ちう》に、二人《ふたり》の運命《うんめい》を托《たく》する此《この》小端艇《せうたんてい》には、帆《ほ》も無《な》く、櫂《かひ》も無《な》く、たゞ浪《なみ》のまに/\漂《たゞよ》つて居《を》るばかりである。
今更《いまさら》昨夜《さくや》の事件《こと》を考《かんが》へると全《まつた》く夢《ゆめ》の樣《やう》だ。
『あゝ、何故《なぜ》此樣《こん》な不運《ふうん》に出逢《であ》つたのであらう。』と私《わたくし》は昨夜《さくや》海《うみ》に浸《ひた》つて、全濡《びつしより》になつた儘《まゝ》、黎明《あかつき》の風《かぜ》に寒《さむ》相《さう》に慄《ふる》へて居《を》る、日出雄少年《ひでをせうねん》をば[#「日出雄少年《ひでをせうねん》をば」は底本では「日出雄少年《ひでをせうねん》をは」]膝《ひざ》に抱上《いだきあ》げ、今《いま》しも、太陽《たいやう》が暫時《しばし》浮雲《うきぐも》に隱《かく》れて、何《なに》
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