ひ》は助《たす》かる事《こと》もありませう。」と明眸《めいぼう》に露《つゆ》を湛《たゝ》えて天《てん》を仰《あほ》いだ。
忽《たちま》ち、暗澹《あんたん》たる海上《かいじやう》に、不意《ふい》に大叫喚《だいけうくわん》の起《おこ》つたのは、本船《ほんせん》を遁《のが》れ去《さ》つた端艇《たんてい》の餘《あま》りに多人數《たにんずう》[#ルビの「たにんずう」は底本では「たにんず」]を載《の》せたため一二|艘《そう》波《なみ》を被《かぶ》つて沈沒《ちんぼつ》したのであらう。
『オー、無殘《むざん》に。』と春枝夫人《はるえふじん》は手巾《ハンカチーフ》に面《おもて》を蔽《おほ》ふた。
『あれは自業自得《じがふじとく》です。』と私《わたくし》は冷笑《れいせう》を禁《きん》じ得《え》なかつた。
弦月丸《げんげつまる》の運命《うんめい》は最早《もはや》一|分《ぷん》、二|分《ふん》、甲板《かんぱん》には殘《のこ》る一艘《いつそう》の端艇《たんてい》も無《な》い、斯《か》くなりては今更《いまさら》何《なに》をか思《おも》はん、せめては殊勝《けなげ》なる最後《さいご》こそ吾等《われら》の望《のぞみ》である。
『夫人《おくさん》!。』と私《わたくし》は靜《しづか》に夫人《ふじん》を呼《よび》かけた。
『何事《なにごと》も天命《てんめい》です、然《しか》し吾等《われら》は此《この》急難《きふなん》に臨《のぞ》んでも、我《わが》日本《につぽん》の譽《ほまれ》を傷《きづゝ》けなかつたのがせめてもの滿足《まんぞく》です。』と語《かた》ると、夫人《ふじん》も微《かす》かにうち點頭《うなづ》き、俯伏《ひれふ》して愛兒《あいじ》の紅《くれない》なる頬《ほう》に最後《さいご》の接吻《せつぷん》を與《あた》へ、言葉《ことば》やさしく
『日出雄《ひでを》や、お前《まへ》は今《いま》此《この》災難《さいなん》に遭《あ》つても、ネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]で袂別《わかれ》の時《とき》に父君《おとつさん》の仰《お》つしやつたお言葉《ことば》を忘《わす》れはしますまいねえ。』と言《い》へば、日出雄少年《ひでをせうねん》は此時《このとき》凛乎《りんこ》たる面《かほ》を擧《あ》げ
『覺《おぼ》えて居《ゐ》ます。父樣《おとつさん》が私《わたくし》の頭《あたま》を撫《な》でゝ、お前《まへ》は日本人《につぽんじん》の子《こ》といふ事《こと》をばどんな時《とき》にも忘《わす》れてはなりませんよ、と仰《おつ》しやつた事《こと》でせう。』
夫人《ふじん》は思《おも》はず涙《なみだ》をはら/\と流《なが》し
『其事《そのこと》、お前《まへ》と母《はゝ》とは、之《これ》が永遠《えいゑん》の別《わかれ》となるかも知《し》れませんが、幸《さひは》ひにお前《まへ》の生命《いのち》が助《たすか》つたなら、之《これ》から世《よ》に立《た》つ時《とき》に、始終《しじう》其《その》言葉《ことば》を忘《わす》れず、誠實《まこと》の人《ひと》とならねばなりませんよ。』と言終《いひをは》つた時《とき》、怒濤《どたう》は早《は》や船尾《せんび》の方《ほう》から打上《うちあ》げて來《き》た。
最早《もはや》最後《さいご》と、私《わたくし》は眼《め》を放《はな》つて四邊《あたり》を眺《なが》めたが、此時《このとき》ふと眼《め》に止《とま》つたのは、左舷《さげん》の方《ほう》に取亂《とりみだ》されてあつた二三|個《こ》の浮標《ブイ》、端艇《たんてい》に急《いそ》いだ人々《ひと/″\》は、かゝる物《もの》には眼《まなこ》を留《と》めなかつたのであらう。私《わたくし》は急《いそ》ぎ取上《とりあ》げた。素早《すばや》く一個《いつこ》を夫人《ふじん》に渡《わた》し、今一個《いまいつこ》を右手《めて》に捕《とら》へて『日出雄《ひでを》さん。』とばかり左手《ひだり》に少年《せうねん》の首筋《くびすぢ》を抱《かゝ》へた時《とき》、船《ふね》は忽《たちま》ち、天地《てんち》の碎《くだ》くるが如《ごと》き響《ひゞき》と共《とも》に海底《かいてい》に沒《ぼつ》し去《さ》つた。
泡立《あはだ》つ波《なみ》、逆卷《さかま》く潮《うしほ》、一時《いちじ》は狂瀾《きやうらん》千尋《せんじん》の底《そこ》に卷込《まきこ》まれたが、稍《やゝ》暫《しばらく》して再《ふたゝ》び海面《かいめん》に浮上《うかびあが》つた時《とき》は黒暗々《こくあん/\》たる波上《はじやう》には六千四百|噸《とん》の弦月丸《げんげつまる》は影《かげ》も形《かたち》もなく、其處此處《そここゝ》には救助《すくひ》を求《もと》むる聲《こゑ》たえ/″\に聽《きこ》ゆるのみ、私《わたくし》は幸《さひはひ》に浮標《ブイ》を失《うしな》はで、日出雄少年《ひでをせうねん》をば右手
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