客《いつとうせんきやく》でもなく、二等船客《にとうせんきやく》でもなく、實《じつ》に此《この》船《ふね》の最後《さいご》まで踏止《ふみとゞま》る可《べ》き筈《はづ》の水夫《すいふ》、火夫《くわふ》、舵手《かぢとり》、機關手《きくわんしゆ》、其他《そのほか》一團《いちだん》の賤劣《せんれつ》なる下等船客《かとうせんきやく》で、自己《おのれ》の腕力《わんりよく》に任《まか》せて、他《た》を突除《つきの》け蹴倒《けたを》して、我先《われさき》にと艇中《ていちう》に乘移《のりうつ》つたのである。
『あゝ、何《なん》たる醜態《しうたい》ぞ。」と私《わたくし》はあまりの事《こと》に撫然《ぶぜん》とした。春枝夫人《はるえふじん》は私《わたくし》の後方《うしろ》に、愛兒《あいじ》をしかと抱《いだ》きたる儘《まゝ》、默然《もくねん》として言《ことば》もない、けれど流石《さすが》に豪壯《がうさう》なる濱島武文《はまじまたけぶみ》の妻《つま》、帝國軍人松島海軍大佐《ていこくぐんじんまつしまかいぐんたいさ》の妹君《いもとぎみ》程《ほど》あつて、些《ちつと》も取亂《とりみだ》したる姿《すがた》のなきは、既《すで》に其《その》運命《うんめい》をば天《てん》に任《まか》せて居《を》るのであらう。かゝる殊勝《けなげ》なる振舞《ふるまひ》を見《み》ては、私《わたくし》は猶《なほ》默《だま》つては居《を》られぬ。
『えゝ、無責任《むせきにん》なる船員《せんいん》! 卑劣《ひれつ》なる外人《くわいじん》! 海上《かいじやう》の規則《きそく》は何《なん》の爲《ため》ぞ。』と悲憤《ひふん》の腕《うで》を扼《やく》すと、夫人《ふじん》の淋《さび》しき顏《かほ》は私《わたくし》に向《むか》つた、沈《しづ》んだ聲《こゑ》で
『いえ、誰人《どなた》も命《いのち》の助《たす》かりたいのは同《おな》じ事《こと》でせう。』と言《い》つて、瞳《ひとみ》を轉《てん》じ
『でも、あの樣《やう》に澤山《たくさん》乘《の》つては端艇《たんてい》も沈《しづ》みませうに。』といふ、我身《わがみ》の危急《あやうき》をも忘《わす》れて、却《かへ》つて仇《あだ》し人《ひと》の身《み》の上《うへ》を氣遣《きづか》ふ心《こゝろ》の優《やさ》しさ、私《わたくし》は聲《こゑ》を勵《はげ》まして
『夫人《おくさん》、其樣《そん》な事處《ことどころ》でありません、貴女《あなた》と少年《せうねん》とは如何《どう》しても助《たすか》らねばなりません、私《わたくし》が濟《す》まない/\。』と叫《さけ》んで見渡《みわた》すと此時《このとき》第二《だいに》の端艇《たんてい》も下《お》りた、第三《だいさん》の端艇《たんてい》も下《お》りた、けれど其《その》附近《ふきん》は以前《いぜん》にも増《ま》す混雜《こんざつ》で、私《わたくし》は[#「私《わたくし》は」は底本では「私《わたくし》ば」]たゞ地團太《ぢだんだ》を踏《ふ》むばかり。ふと眼《まなこ》に入《い》つたのは、今《いま》、此《この》船《ふね》の責任《せきにん》を双肩《さうけん》に擔《にな》へる船長《せんちやう》が、卑劣《ひれつ》にも此時《このとき》、舷燈《げんとう》の光《ひかり》朦朧《もうろう》たるほとりより、天《てん》に叫《さけ》び、地《ち》に泣《な》ける、幾百《いくひやく》の乘組人《のりくみにん》をば此處《ここ》に見捨《みす》てゝ、第三《だいさん》の端艇《たんてい》に乘移《のりうつ》らんとする處《ところ》。
『ひ、ひ、卑怯者《ひけふもの》!。』と私《わたくし》は躍起《やつき》になつた、此處《こゝ》には春枝夫人《はるえふじん》の如《ごと》き殊勝《けなげ》なる女性《によせう》もあるに、彼《かれ》船長《せんちやう》の醜態《しうたい》は何事《なにごと》ぞと思《おも》ふと、もう默《だま》つては居《を》られぬ、元《もと》より無益《むえき》の業《わざ》ではあるが、せめての腹愈《はらいや》しには、吾《わが》鐵拳《てつけん》をもつて彼《かれ》の頭《かしら》に引導《いんどう》渡《わた》して呉《く》れんと、驅出《かけだ》す袂《たもと》を夫人《ふじん》は靜《しづか》に留《とゞ》めた。
『もう何事《なにごと》も爲《な》さりますな。妾《わたくし》も、日出雄《ひでを》も、此儘《このまゝ》海《うみ》の藻屑《もくづ》と消《き》えても、决《けつ》して未練《みれん》に助《たす》からうとは思《おも》ひませぬ。』と白※[#「薔」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、110−1]薇《はくさうび》のたとへば雨《あめ》に惱《なや》めるが如《ごと》く、しみ/″\と愛兒《あいじ》の顏《かほ》を眺《なが》めつゝ
『けれど、天《てん》の惠《めぐみ》があるならば、波《なみ》の底《そこ》に沈《しづ》んでも或《ある
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