ん》は、却《かへつ》て危險《きけん》の多《おほ》いので、吾等《われら》三人《みたり》は全《まつた》く離《はな》れて、ずつと船首《せんしゆ》の海圖室《かいづしつ》の側《ほとり》に身《み》を寄《よ》せた。此《この》塲合《ばあひ》に第《だい》一に私《わたくし》の胸《むね》をうつたのは、此《この》航海《かうかい》のはじめネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]港《かう》を出《い》づる時《とき》、濱島《はまじま》に堅《かた》く約《やく》して、夫人《ふじん》と其《その》愛兒《あいじ》との身《み》の上《うへ》は、私《わたくし》の生命《いのち》に懸《か》けてもと堅《かた》く請合《うけあ》つた事《こと》、今《いま》、此《この》危急《ききふ》の塲合《ばあひ》に臨《のぞ》んで、私《わたくし》の身命《しんめい》は兎《と》もあれ、此《この》二人《ふたり》丈《だ》[#ルビの「だ」は底本では「た」]けは如何《どう》しても救《すく》はねばならぬのだ。
船《ふね》は秒一秒《べういちべう》に沈《しづ》んで行《ゆ》く、甲板《かんぱん》の叫喚《けうくわん》はます/\激《はげ》しくなつた。終《つひ》に「端艇《たんてい》下《おろ》せい。」の號令《がうれい》は響《ひゞ》いて、第《だい》一の端艇《たんてい》は波上《はじやう》に降下《くだ》つた。此時《このとき》私《わたくし》は春枝夫人《はるえふじん》を見返《みかへ》つたのである。
『いざ、夫人《おくさん》、避難《ひなん》の用意《ようゐ》を。』と。すべて海上《かいじやう》の規則《きそく》として、斯《かゝ》る塲合《ばあひ》に第《だい》一に下《くだ》されたる端艇《たんてい》は一等船客《いつとうせんきやく》のため、第《だい》二が二等船客《にとうせんきやく》、第《だい》三が三等船客《さんとうせんきやく》、總《すべ》ての船客《せんきやく》の免《のが》れ去《さ》つた後《あと》に、猶殘《なほのこ》る端艇《たんてい》があれば、其時《そのとき》はじめて船員等《せんゐんら》の避難《ひなん》の用《よう》に供《けう》せらるゝのである。で私《わたくし》は今《いま》第《だい》一|端艇《たんてい》の下《くだ》ると共《とも》に、吾等《われら》一等船客《いつとうせんきやく》たるの權利《けんり》をもつて、春枝夫人《はるえふじん》と日出雄少年《ひでをせうねん》とを誘《いざな》つたのである。勿論《もちろん》私《わたくし》は不束《ふつゝか》ながらも一個《いつこ》の日本男子《につぽんだんし》であれば、其《その》國《くに》の名《な》に對《たい》しても、斯《かゝ》る[#「斯《かゝ》る」は底本では「斯《かゝ》か」]塲合《ばあひ》に第《だい》一に逃出《にげだ》す事《こと》は出來《でき》ぬのである。然《しか》し、春枝夫人《はるえふじん》と日出雄少年《ひでをせうねん》とは私《わたくし》が[#「私《わたくし》が」は底本では「私《わたくし》か」]堅《かた》く友《とも》に保證《ほしやう》して居《お》る人《ひと》、且《かつ》は纎弱《かよわ》き女性《によせう》と、無邪氣《むじやき》なる少年《せうねん》の身《み》であれば、先《ま》づ此《この》二人《ふたり》をば避難《ひなん》せしめんと頻《しきり》に心《こゝろ》を焦《いらだ》てたのである。
然《しか》るに私《わたくし》の苦心《くしん》は全《まつた》く無益《むえき》であつた。第一端艇《だいいちたんてい》の波上《はじやう》[#ルビの「はじやう」は底本では「はしやう」]に浮《うか》ぶや否《い》なや、忽《たちま》ち數百《すうひやく》の人《ひと》は、雪崩《なだれ》の如《ごと》く其處《そこ》へ崩《くづ》れかゝつた。我先《われさき》に其《その》端艇《たんてい》に乘移《のりうつ》らんと、人波《ひとなみ》うつて※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]閙《ひしめ》く樣《さま》は、黒雲《くろくも》の風《かぜ》に吹《ふ》かれて卷返《まきかへ》すやうである。
『夫人《おくさん》、とてもいけません。』と二三|歩《ぽ》進《すゝ》んだ私《わたくし》は振返《ふりかへ》つた。とても/\、あの狂氣《きちがひ》のやうに立騷《たちさわ》いで居《を》る多人數《たにんずう》の間《あひだ》を分《わ》けて、此《この》柔弱《かよわ》き夫人《ふじん》と少年《せうねん》とを安全《あんぜん》に端艇《たんてい》に送込《おくりこ》む事《こと》が出來《でき》やう? あゝ人間《にんげん》はいざと云《い》ふ塲合《ばあひ》には、恥辱《はぢ》も名譽《めいよ》もなく、斯《か》く迄《まで》生命《いのち》の惜《を》しい者《もの》かと、嘆息《たんそく》と共《とも》に眺《なが》めて居《を》ると、更《さら》に奇怪《きくわい》なるは、其《その》端艇《たんてい》に身《み》を投《とう》じたる一群《いちぐん》の人《ひと》、それは一等船
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