の恨《うらみ》を飮《の》んで、印度洋《インドやう》の海底《かいてい》に沈沒《ちんぼつ》せしめられたのである。
風《かぜ》軟《やはら》かに、草《くさ》みどりなる陸上《りくじやう》の人《ひと》は、船《ふね》の沈沒《ちんぼつ》などゝ聞《き》けば、恰《あだか》も趣味《しゆみ》ある出來事《できごと》の樣《やう》に思《おも》はれて、或《あるひ》は演劇《えんげき》に、或《あるひ》は油繪《あぶらゑ》に、樣々《さま/″\》なる事《こと》をして其《その》悲壯《ひさう》なる光景《ありさま》を胸裡《むね》に描《ゑが》かんとして居《を》るが、私《わたくし》の如《ごと》く現在《げんざい》其《その》難《なん》に臨《のぞ》んで、弦月丸《げんげつまる》が悲慘《ひさん》なる最後《さいご》を遂《と》ぐるまで、其《その》甲板《かんぱん》に殘《のこ》つて居《を》つた身《み》は、今更《いまさら》其《その》始終《しじゆう》を懷想《くわいさう》しても身《み》の毛《け》の彌立《よだ》つ程《ほど》で、とても詳《くわ》しい事《こと》を述立《のべた》てるに忍《しの》びぬが、是非《ぜひ》に語《かた》らねばならぬ其《その》大略《あらまし》だけを茲《こゝ》に記《しる》して置《お》かう。
海蛇丸《かいだまる》が我《わが》弦月丸《げんげつまる》の右舷《うげん》に衝突《しやうとつ》して、風《かぜ》の如《ごと》く其《その》形《かたち》を闇中《やみ》に沒《ぼつ》し去《さ》つた後《のち》は、船中《せんちゆう》は鼎《かなえ》の沸《わ》くが樣《やう》な騷《さわぎ》[#ルビの「さわぎ」は底本では「さわき」]であつた。泣《な》く聲《こゑ》、喚《わめ》く聲《こえ》、哀《あはれ》に救助《たすけ》を求《もと》むる聲《こゑ》は、悽《すさ》まじき怒濤《どとう》の音《おと》と打交《うちまじ》つて、地獄《ぢごく》の光景《ありさま》もかくやと思《おも》はるゝばかり。あらゆる防水《ぼうすい》の方便《てだて》は盡《つく》されたが、微塵《みぢん》に打碎《うちくだ》かれたる屹水下《きつすいか》からは海潮《かいてう》瀧《たき》の如《ごと》く迸《ほとばしり》入《い》つて、其《その》近傍《きんぼう》には寄《よ》り附《つ》く事《こと》も出來《でき》ない。十|臺《だい》の喞筒《ポンプ》は、全力《ぜんりよく》で水《みづ》を吐出《はきだ》して居《を》るが何《なん》の效能《こうのう》もない。六千四百|噸《とん》の巨船《きよせん》もすでに半《なかば》は傾《かたむ》き、二本《にほん》の煙筒《えんとう》から眞黒《まつくろ》に吐出《はきだ》す烟《けぶり》は、恰《あたか》も斷末魔《だんまつま》[#ルビの「だんまつま」は底本では「たんまつま」]の苦悶《くもん》を訴《うつた》へて居《を》るかのやうである。
『もう無益《だめ》だ/\、とても沈沒《ちんぼつ》は免《まぬ》かれない。』と船員《せんゐん》一同《いちどう》はすでに本船《ほんせん》の運命《うんめい》を見捨《みす》てたのである。
私《わたくし》は此時《このとき》まで殆《ほと》んど喪心《そうしん》の有樣《ありさま》で、甲板《かんぱん》の一端《いつたん》に屹立《つゝた》つた儘《まゝ》、此《この》慘憺《さんたん》たる光景《ありさま》に眼《まなこ》を注《そゝ》いで居《を》つたが、ハツと心付《こゝろつ》いたよ。
『春枝夫人《はるえふじん》、日出雄少年《ひでをせうねん》は如何《どう》して居《を》るだらう。』と
私《わたくし》は宙《ちう》を飛《と》んで船室《せんしつ》の方《かた》に向《むか》つた。昇降口《しようかうぐち》のほとり、出逢《であ》ひがしらに、下方《した》から昇《のぼ》つて來《き》たのは、夫人《ふじん》と少年《せうねん》とであつた。不時《ふじ》の大騷動《だいさうどう》に、愕《おどろ》き目醒《めさ》めたる春枝夫人《はるえふじん》は、かゝる焦眉《せうび》の急《きふ》にも其《その》省愼《たしなみ》を忘《わす》れず、寢衣《しんい》を常服《じやうふく》に着更《きか》へて居《を》つた爲《た》めに、今《いま》漸《やうや》く此處《こゝ》まで來《き》たのである。見《み》るより私《わたくし》は
『夫人《おくさん》、大事變《だいじへん》が/\。』
『何《なに》か起《おこ》りましたか、暗礁《あんせう》へでも?』と夫人《ふじん》の聲《こゑ》は沈《しづ》んで居《を》つた。
『暗礁《あんせう》どころか、ま、早《はや》く/\。』と私《わたくし》は引立《ひきた》てるやうにして夫人《ふじん》を伴《ともな》ひ、喫驚《びつくり》して眼《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて居《を》る少年《せうねん》をば、ヒシと腕《うで》に抱《かゝ》へて甲板《かんぱん》を走《はし》つた、餘《あま》りに人《ひと》の立騷《たちさわ》いで居《を》る邊《へ
前へ
次へ
全151ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
押川 春浪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング