右舷《うげん》に取《と》れば、彼方《かなた》海蛇丸《かいだまる》も左舷《さげん》の紅燈《こうとう》隱《かく》れて鍼路《しんろ》を右《みぎ》に取《と》り、此方《こなた》短聲《たんせい》二發《にぱつ》鍼路《しんろ》を左舷《さげん》に廻《めぐ》らせば、彼方《かなた》も亦《ま》た左舷《さげん》の紅燈《こうとう》現《あら》はれて鍼路《しんろ》を左《ひだり》に取《と》る。最早《もはや》疑《うたが》ふ事《こと》は出來《でき》ぬ、海蛇丸《かいだまる》は今《いま》や立浪《たつなみ》跳《をど》つて海水《かいすい》淺《あさ》き、此《この》海上《かいじやう》で我《わ》が弦月丸《げんげつまる》を一撃《いちげき》の下《もと》に撃沈《げきちん》せんと企圖《くわだ》てゝ居《を》るのだ。
『衝突《しようとつ》だ! 衝突《しようとつ》だ! 衝突《しようとつ》だ!』と百數十《ひやくすふじふ》の船員等《せんゐんら》は夢中《むちう》になつて甲板上《かんぱんじやう》を狂奔《きやうほん》した。
此時《このとき》既《すで》に本船《ほんせん》を去《さ》る海蛇丸《かいだまる》の距離《きより》は僅《わず》かに二|百《ひやく》二三十|米突《メートル》以内《いない》※[#感嘆符三つ、100−10]
一等運轉手《チーフメート》と船長《せんちやう》とは血眼《ちまなこ》になつて一度《いちど》に叫《さけ》んだ
『全速力《ぜんそくりよく》後退《こうたい》! 後退《こうたい》! 後退《こうたい》!』
同時《どうじ》に※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]角《きかく》短聲《たんせい》三發《さんぱつ》、蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]機關《じようききくわん》の響《ひゞき》ハッタと更《あらた》まつて、逆《ぎやく》に廻旋《くわいせん》する推進螺旋《スクルー》の邊《ほとり》、泡立《あはだ》つ波《なみ》は飛雪《ふゞき》の如《ごと》く、本船《ほんせん》忽《たちま》ち二十|米突《メートル》――三十|米突《メートル》も後退《こうたい》したと思《おも》つたが、此時《このとき》すでに遲《おそ》かつた、今《いま》や我《わ》が弦月丸《げんげつまる》の側面前方《そくめんぜんぱう》、約《やく》百|米突《メートル》以内《いない》に接迫《せつぱく》し來《きた》つた海蛇丸《かいだまる》は、忽然《こつぜん》[#ルビの「こつぜん」は底本では「こぜん」]其《その》船首《せんしゆ》を左方《さほう》に廻轉《くわいてん》するよと見《み》る間《ま》に、其《その》鋭《するど》き衝角《しようかく》は恰《あたか》も電光石火《でんくわうせきくわ》の如《ごと》く、本船《ほんせん》の中腹《ちうふく》目撃《めが》けてドシン※[#感嘆符三つ、101−6]
弦月丸《げんげつまる》は萬山《ばんざん》の崩《くづ》るゝが如《ごと》き響《ひゞき》と共《とも》に左舷《さげん》に傾斜《かたむ》いた。途端《とたん》に起《おこ》る大叫喚《だいけうくわん》。二百《にひやく》の船員《せんゐん》が狂《くる》へる甲板《かんぱん》へ、數百《すうひやく》の乘客《じやうきやく》が一時《いちじ》に黒雲《くろくも》の如《ごと》く飛出《とびだ》したのである。
風《かぜ》の如《ごと》く、電光《いなづま》の如《ごと》く來《きた》りし海蛇丸《かいだまる》[#ルビの「かいだまる」は底本では「かいたまる」]は、また、風《かぜ》の如《ごと》く、電光《いなづま》の如《ごと》く、黒暗々《こくあん/\》たる波間《はかん》に隱《かく》れてしまつた。
天空《そら》には星影《ほしかげ》一|點《てん》、二|點《てん》、又《ま》た三|點《てん》、風《かぜ》死《し》して浪《なみ》黒《くろ》く、船《ふね》は秒一秒《べういちべう》と、阿鼻叫喚《あびけうくわん》の響《ひゞき》を載《の》せて、印度洋《インドやう》の海底《かいてい》に沈《しづ》んで行《ゆ》くのである。
第八回 人間《にんげん》の運命《うんめい》
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弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標《ブイ》――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
[#ここで字下げ終わり]
あゝ人間《にんげん》の運命《うんめい》程《ほど》不思議《ふしぎ》な者《もの》はない。此《この》珍事《ちんじ》のあつた翌日《よくじつ》は私《わたくし》は、日出雄少年《ひでをせうねん》と唯《たゞ》二人《ふたり》で、長《なが》さ卅|呎《フヒート》にも足《た》らぬ小端艇《せうたんてい》に身《み》を委《ゆだ》ねて、水《みづ》や空《そら》なる大海原《おほうなばら》を浪《なみ》のまに/\漂《たゞよ》[#ルビの「たゞよ」は底本では「たゝよ」]つて居《を》るのであつた。言《い》ふ迄《まで》も無《な》く、弦月丸《げんげつまる》は其時《そのとき》無限《むげん》
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