し》の速《はや》い事《こと》は――』と右手《ゆんで》の時辰器《じしんき》を船燈《せんとう》の光《ひかり》に照《てら》して打眺《うちなが》めつゝ、眤《じつ》と考《かんが》へて居《を》るのは本船《ほんせん》の一等運轉手《チーフメート》である。つゞいて
『何會社《どこ》の※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《ふね》だらう。』
『商船《しようせん》だらうか、郵便船《ゆうびんせん》だらうか。』
『いや、軍艦《ぐんかん》に相違《さうゐ》ない。』
『軍艦《ぐんかん》にしても、あんなに速《はや》い船脚《ふなあし》は新式《しんしき》巡洋艦《じゆんやうかん》か、水雷驅逐艦《すいらいくちくかん》の他《ほか》はあるまい。』と二|等《とう》運轉手《うんてんしゆ》、非番《ひばん》舵手《だしゆ》、水夫《すゐふ》、火夫《くわふ》、船丁《ボーイ》に至《いた》るまで、互《たがひ》に眼《め》と眼《め》を見合《みあは》せつゝ口々《くち/″\》に罵《のゝし》り騷《さは》いで居《を》る。彼等《かれら》の中《うち》には、先刻《せんこく》の不思議《ふしぎ》な信號《しんがう》を見《み》た者《もの》もあらう、また見《み》ぬ者《もの》もあらう。
怪《あやし》の船《ふね》は遂《つひ》に我《わ》が弦月丸《げんげつまる》と雁行《がんかう》になつた。船橋《せんけう》の船長《せんちやう》は右顧左顧《うこさこ》、頻《しき》りに心安《こゝろやす》からず見《み》えた。我《わ》が一等運轉手《チーフメート》は急《いそが》はしく後部甲板《こうぶかんぱん》に走《はし》つたが、忽《たちま》ち一令《いちれい》を掛《か》けると、一個《いつこ》の信號水夫《しんがうすゐふ》は、右手《ゆんで》に高《たか》く白色球燈《はくしよくきうとう》を掲《かゝ》げて、左舷船尾《さげんせんび》の「デツキ」に立《た》つた。之《こ》れは海上法《かいじやうほふ》に從《したが》つて、船《ふね》の將《まさ》に他船《たせん》に追越《おひこ》されんとする時《とき》に表示《へうし》する夜間信號《やかんしんがう》である。然《しか》るに彼方《かなた》怪《あやし》の船《ふね》は敢《あへ》て此《この》信號《しんがう》には應答《こた》へんともせず、忽《たちま》ち見《み》る其《その》甲板《かんぱん》からは、一導《いちだう》の探海電燈《サーチライト》の光《ひかり》閃々《せん/\》と天空《てんくう》を照《てら》し、つゞいてサツ[#「サツ」に傍点]とばかり、其《その》眩《まば》ゆき光《ひかり》を我《わ》が甲板《かんぱん》に放《な》げると共《とも》に、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]笛《きてき》一二|聲《せい》、波《なみ》を蹴立《けた》てゝます/\進航《しんかう》の速力《そくりよく》を速《はや》めた。
見《み》る/\内《うち》に怪《あやし》の船《ふね》の白色檣燈《はくしよくしやうとう》は我《わ》が弦月丸《げんげつまる》の檣燈《しやうとう》と並行《へいかう》になつた――早《は》や、彼方《かなた》の右舷《うげん》の緑燈《りよくとう》は我《わ》が左舷《さげん》の紅燈《こうとう》を尻眼《しりめ》にかけて、一|米突《メートル》――二|米突《メートル》――三|米突《メートル》――端艇《ボート》ならば少《すくな》くも半艇身《はんていしん》以上《いじやう》我《わ》が船《ふね》を乘越《のりこ》した。
此時《このとき》!
私《わたくし》は如何《いか》にもして、かの怪《あやし》の船《ふね》の正體《しやうたい》を見屆《みとゞ》けんものをと、身《み》を飜《ひるがへ》して左舷船首《さげんせんしゆ》に走《はし》り、眼《まなこ》を皿《さら》のやうにして其《その》船《ふね》の方《かた》を見詰《みつ》めたが、月無《つきな》く、星影《ほしかげ》も稀《まれ》なる海《うみ》の面《おもて》は、百|米突《メートル》――二百|米突《メートル》とは距《へだ》たらぬのに黒暗々《こくあん/\》として咫尺《しせき》を辨《べん》じない。加《くは》ふるに前檣々頭《ぜんしやうしやうとう》に一點《いつてん》の白燈《はくとう》と、左舷《さげん》の紅燈《こうとう》は見《み》えで、右舷《うげん》に毒蛇《どくじや》の巨眼《まなこ》の如《ごと》き緑色《りよくしよく》の舷燈《げんとう》を現《あらは》せる他《ほか》は、船橋《せんけう》にも、甲板《かんぱん》にも、舷窓《げんさう》からも、一個《いつこ》の火影《ほかげ》を見《み》せぬかの船《ふね》は、殆《ほと》んど闇黒《やみ》に全體《ぜんたい》を包《つゝ》まれて居《を》つたが、私《わたくし》の一念《いちねん》の屆《とゞ》いて幾分《いくぶ》か神經《しんけい》の鋭《するど》くなつた爲《ため》か、それとも瞳《ひとみ》の漸《やうや》く闇黒《あんこく》に馴《な》れた爲《ため》か、私
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