《わたくし》に向《むか》ひ
『だが[#「だが」は底本では「だか」]先刻《せんこく》は確實《たしか》に救助《きゆうじよ》を求《もと》むる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》が見《み》えましたか。』と眉《まゆ》に唾《つばき》した。可笑《をか》しい樣《やう》だが船乘人《ふなのり》にはかゝる迷信《めいしん》を抱《いだ》いて居《を》る者《もの》が澤山《たくさん》ある、私《わたくし》は相手《あいて》にせず簡單《かんたん》に
『左樣《さやう》、確《たしか》に救助《きうじよ》を求《もと》むる難破《なんぱ》の信號《しんがう》!。」と答《こた》へて、彼《かれ》が『うむ、いよ/\違《ちがひ》ない、船幽靈《ふなゆうれい》メー。』と單獨《ひとり》でぐと/\何事《なにごと》をか言《い》つて居《を》るのを聽《き》き流《なが》しながら、猶《なほ》よく其《その》海上《かいじやう》を見渡《みわた》すと、今《いま》眼《め》に見《み》ゆる三個《さんこ》の燈光《とうくわう》は、决《けつ》して愚《おろか》なる船長《せんちやう》の言《い》ふが如《ごと》き、怨靈《おんれう》とか海《うみ》の怪物《ばけもの》とかいふ樣《やう》な世《よ》に在《あ》り得可《うべ》からざる者《もの》の光《ひかり》ではなく、緑《りよく》、紅《こう》の兩燈《りようとう》は確《たしか》に船《ふね》の舷燈《げんとう》で、海面《かいめん》より高《たか》き白色《はくしよく》の光《ひかり》は海上法《かいじやうほふ》に從《したが》ひ甲板《かんぱん》より二十|尺《しやく》以上《いじやう》高《たか》く掲《かゝ》げられたる檣燈《しやうとう》にて、今《いま》や、何等《なにら》かの船《ふね》は、我《わ》が弦月丸《げんげつまる》の後《あと》を追《お》ふて進航《しんかう》しつゝ來《きた》るのであつた。

    第七回 印度洋《インドやう》の海賊《かいぞく》
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水雷驅逐艦か巡洋艦か――昔の海賊と今の海賊――海底潜水器――探海電燈《サアチライト》――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
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 私《わたくし》が一心《いつしん》に見詰《みつ》めて居《を》る間《あひだ》に、右舷《うげん》に緑燈《りよくとう》、左舷《さげん》に紅燈《こうとう》、甲板《かんぱん》より二十|尺《しやく》以上《いじやう》高《たか》き前檣《ぜんしやう》に閃々《せん/\》たる白色燈《はくしよくとう》を掲《かゝ》げたる一隻《いつさう》の船《ふね》は、印度洋《インドやう》の闇黒《やみ》を縫《ぬ》ふてだん/″\と接近《せつきん》して來《き》た。今《いま》、我《わ》が弦月丸《げんげつまる》は一|時間《じかん》に十二三|海里《ノツト》の速力《そくりよく》をもつて進航《しんかう》して居《を》るのに、其《その》後《あと》を追《お》ふて斯《か》くも迅速《じんそく》に接近《せつきん》して來《く》るとは、實《じつ》に非常《ひじやう》の速力《そくりよく》でなければならぬ。今《いま》の世《よ》に、かくも驚《おどろ》く可《べ》き速力《そくりよく》をもつて居《を》る船《ふね》は、水雷驅逐艦《すゐらいくちくかん》か、水雷巡洋艦《すゐらいじゆんやうかん》の他《ほか》はあるまい、あの燈光《とうくわう》の主體《しゆたい》は果《はた》して軍艦《ぐんかん》の種類《しゆるい》であらうか。軍艦《ぐんかん》の種類《しゆるい》ならば何《なに》も配慮《しんぱい》するには及《およ》ばないが――若《も》しや――若《も》しや――と私《わたくし》はふと[#「ふと」に傍点]或《ある》事《こと》を想起《おもひおこ》した時《とき》、思《おも》はずも戰慄《せんりつ》したよ。
未《いま》だ其《そ》の船《ふね》の船體《せんたい》も認《みと》めぬ内《うち》から、斯《かゝ》る心配《しんぱい》をするのは全《まつた》く馬鹿氣《ばかげ》て居《を》るかも知《し》れぬが、先刻《せんこく》からの奇怪《きくわい》の振舞《ふるまひ》を見《み》ては、どうも心《こゝろ》が安《やす》くないのである、第一《だいゝち》に遙《はる》か/\の闇黒《あんこく》なる海上《かいじやう》に於《おい》て、星火榴彈《せいくわりうだん》を揚《あ》げ、火箭《くわぜん》を飛《と》ばして難破船《なんぱせん》の風體《ふうてい》を摸擬《よそを》つたなど、船長《せんちやう》は單《たん》に船幽靈《ふないうれい》の仕業《しわざ》で御坐《ござ》るなどゝ、無※[#「(禾+尤)/上/日」、85−11]《ばか》な事《こと》を言《い》つて居《を》るが其實《そのじつ》、かの不思議《ふしぎ》なる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》は、現世《このよ》に存在得《ありう》べからざる海魔《かいま》とか船幽靈《ふなゆうれい》とかよりは百倍《ひやくばい》も千倍《せんばい》も
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