《すゐふ》があるです、敢《あへ》て貴下《きか》を煩《はずら》はす筈《はづ》も無《な》いです。』
『無論《むろん》です、けれど本船《ほんせん》の當番《たうばん》水夫《すゐふ》は眼《め》の無《な》い奴《やつ》に、情《こゝろ》の無《な》い奴《やつ》です、一人《ひとり》は茫然《ぼんやり》して居《ゐ》ます、一人《ひとり》は知《し》つて知《し》らぬ顏《かほ》をして居《ゐ》ます。船長閣下《せんちやうかくか》、早《はや》く、早《はや》く、難破船《なんぱせん》の運命《うんめい》は一|分《ぷん》一|秒《びやう》の遲速《ちそく》をも爭《あらそ》ひますぞ。』
『いけません!』と船長《せんちやう》は冷《ひやゝ》かに笑《わら》つた。
『貴下《あなた》は海上《かいじやう》の法則《ほうそく》を知《し》りませんか、たとへ如何《どん》な事《こと》があらうとも船員《せんゐん》以外《いぐわい》の者《もの》が其《それ》に嘴《くちばし》を容《ゐ》れる權利《けんり》が無《な》いです、また私《わたくし》は貴下《あなた》から其樣《そん》な報告《ほうこく》を受《う》ける義務《ぎむ》が無《な》いです。』と彼《かれ》は右手《ゆんで》を延《のば》して卓上《たくじやう》の葉卷《シユーガー》を取上《とりあげ》た。私《わたくし》は迫込《せきこ》み
『理屈《りくつ》を申《まう》すぢやありません、私《わたくし》の越權《えつけん》は私《わたくし》が責任《せきにん》を負《お》ひます。貴下《あなた》は信《しん》じませんか、今《いま》現《げん》に難破船《なんぱせん》が救助《きゆうじよ》を求《もとめ》て居《を》るのを。』
『信《しん》じません、信《しん》ぜられません。』と船長《せんちやう》は今《いま》取上《とりあ》げた葉卷《シユーガー》を腹立《はらた》たし氣《げ》に卓上《たくじやう》に投《な》げ返《かへ》して
『當番《たうばん》水夫《すゐふ》からは何等《なにら》の報告《ほうこく》の無《な》い内《うち》は决《けつ》して信じません。况《いわ》んや此樣《こんな》平穩《おだやか》な海上《かいじやう》に難破船《なんぱせん》などのあらう筈《はづ》は無《な》い、無※[#「(禾+尤)/上/日」、79−6]《ばか》なツ。』
『無※[#「(禾+尤)/上/日」、79−7]《ばか》なツ。』と私《わたくし》は勃然《むつ》としてしまつた。日頃《ひごろ》から短氣《たんき》は私《わたくし》の持病《やまひ》、疳癪玉《かんしやくだま》が一時《いちじ》に破裂《はれつ》したよ。
『無《な》い、無《な》い、無《な》いとは何《なん》です、私《わたくし》は今《いま》現《げん》に目撃《もくげき》して來《き》たのです。』
『はゝゝゝゝ。何《なに》を目撃《もくげき》しましたか。はゝゝゝゝ。』と彼《かれ》は空惚《そらとぼ》けて大聲《おほごえ》に笑《わら》つた。私《わたくし》は實《じつ》に腹《はら》の中《なか》から※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]返《にへかへ》つたよ。序《ついで》だから言《い》つて置《お》くが、私《わたくし》は初《はじ》め此《この》船《ふね》に乘組《のりく》んだ時《とき》から一見《いつけん》して此《この》船長《せんちやう》はどうも正直《しようじき》な人物《じんぶつ》では無《な》いと思《おも》つて居《を》つたが果《はた》して然《しか》り、彼《かれ》は今《いま》、多少《たせう》の勞《らう》を厭《いと》ふて他船《たせん》の危難《きなん》をば見殺《みころ》しにする積《つもり》だなと心付《こゝろつ》いたから、私《わたくし》は激昂《げきこう》のあまり
『何《なに》を見《み》たもありません、本船《ほんせん》左舷《さげん》後方《こうほう》の海上《かいじやう》に當《あた》つて星火榴彈《せいくわりうだん》に一次《いちじ》一發《いつぱつ》の火箭《くわせん》、それが難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》である位《くらゐ》を知《し》りませんか。』
『其樣《そんな》事《こと》は承《うけたまは》る必要《ひつえう》もありません。』と船長《せんちやう》は鼻《はな》で笑《わら》ひつゝ
『それは大方《おほかた》貴下《あなた》の眼《め》の誤《あやま》りでせうよ。うふゝゝゝ。』
『眼《め》の誤《あやま》り※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 之《これ》は怪《け》しからん、私《わたくし》にはちやんと二個《ふたつ》の眼《め》がありますぞ。』
『其《その》眼《め》が怪《あや》しい、海《うみ》の上《うへ》ではよく眩惑《ごまか》されます、貴下《あなた》は屹度《きつと》流星《りうせい》の飛《と》ぶのでも見《み》たのでせう。』とビール樽《だる》のやうな腹《はら》を突出《つきだ》して
『いや、よしんば其《それ》が眞個《ほんたう》の難破信號《なんぱしんがう》であつたにしろ、此樣《こんな
前へ
次へ
全151ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
押川 春浪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング