踏止《ふみとゞま》つて命掛《いのちが》けに揉合《もみあ》ふ事《こと》半時《はんとき》ばかり、漸《やうやく》の事《こと》で片膝《かたひざ》を着《つ》かしてやつたので、此《この》評判《へうばん》は忽《たちま》ち船中《せんちゆう》に廣《ひろ》まつて、感服《かんぷく》する老人《らうじん》もある、切齒《はがみ》する若者《わかもの》もあるといふ騷《さは》ぎ、誰《たれ》いふとなく『日本人《につぽんじん》は鐵《てつ》の一|種《しゆ》である、如何《いかん》となれば黒《くろ》く且《か》つ堅固《けんご》なる故《ゆゑ》に。』などゝ不思議《ふしぎ》なる賞讃《しようさん》をすら博《はく》して、一|時《じ》は私《わたくし》の鼻《はな》も餘程《よほど》高《たか》かつたが、茲《こゝ》に一|大《だい》事件《じけん》が出來《しゆつたい》した、それは他《ほか》でもない、丁度《ちやうど》此《この》船《ふね》に米國《ベイこく》の拳鬪《けんとう》の達人《たつじん》とかいふ男《をとこ》が乘合《のりあは》せて居《を》つたが、此《この》噂《うわさ》を耳《みゝ》にして先生《せんせい》心安《こゝろやす》からず、『左程《さほど》腕力《わんりよく》の強《つよ》い日本人《につぽんじん》なら、一|番《ばん》拳鬪《けんとう》の立《たち》合ひをせぬか。』と申込《まうしこ》んで來《き》た。
私《わたくし》は拳鬪《けんとう》の仕合《しあ》ひは見《み》た事《こと》はあるが、まだやつた事《こと》は一|度《ど》もない、然《しか》し斯《か》く申込《まうしこ》まれては男《をとこ》の意地《いぢ》、どうなるものかと一|番《ばん》立合《たちあ》つて見《み》たが馴《な》れぬ業《わざ》は仕方《しかた》がない、散々《さん/″\》な目《め》に逢《あ》つて、氣絶《きぜつ》する程《ほど》甲板《かんぱん》の上《うへ》に投倒《なげたふ》されて、折角《せつかく》高《たか》まつた私《わたくし》の鼻《はな》も無殘《むざん》に拗折《へしを》られてしまつた。春枝夫人《はるえふじん》は痛《いた》く心配《しんぱい》して『あまりに御身《おんみ》を輕《かろ》んじ玉《たま》ふな。』と明眸《めいぼう》に露《つゆ》を帶《お》びての諫言《いさめごと》、私《わたくし》は實《じつ》に殘念《ざんねん》であつたが其儘《そのまゝ》思《おも》ひ止《とゞま》つた。一|時《じ》は拳鬪《けんとう》のお禮《れい》に眞劍勝負《しんけんしやうぶ》でも申込《まうしこ》んで呉《く》れんかとまで腹立《はらた》つたのだが。
拳鬪《けんとう》の翌日《よくじつ》また一《ひと》騷動《さうどう》が持上《もちあが》つた。それは興行《こうげう》のためにと香港《ホンコン》へ赴《おもむ》かんとて、此《この》船《ふね》に乘組《のりく》んで居《を》つた伊太利《イタリー》の曲馬師《きよくばし》の虎《とら》が檻《おり》を破《やぶ》つて飛《と》び出《だ》した事《こと》で、船中《せんちう》鼎《かなへ》の沸《わ》くが如《ごと》く、怒《いか》る水夫《すゐふ》、叫《さけ》ぶ支那人《シナじん》、目《め》を暈《まは》す婦人《ふじん》もあるといふ騷《さは》ぎで、弦月丸《げんげつまる》出港《しゆつかう》のみぎりに檣燈《しやうとう》の微塵《みじん》に碎《くだ》けたのを見《み》て『南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》、此《この》船《ふね》には魔《ま》が魅《みい》つて居《を》るぜ。』と呟《つぶや》いた英國《エイこく》の古風《こふう》な紳士《しんし》は甲板《かんぱん》から自分《じぶん》の船室《へや》へ逃《に》げ込《こ》まんとて昇降口《しようかうぐち》から眞逆《まつさかさま》に滑落《すべりお》ちて腰《こし》を※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、70−4]《ぬ》かした、偶然《ぐうぜん》にも船《ふね》の惡魔《あくま》が御自分《ごじぶん》に祟《たゝ》つたものであらうか。虎《とら》は漸《やうやく》の事《こと》で捕押《とりおさ》へたが其爲《そのため》に怪我人《けがにん》が七八|人《にん》も出來《でき》た。
かゝる樣々《さま/″\》の出來事《できごと》の間《あひだ》、吾等《われら》の可憐《かれん》なる日出雄少年《ひでをせうねん》は、相變《あひかは》らず元氣《げんき》よく始終《しじゆう》甲板《かんぱん》を飛廻《とびまは》つて居《を》る内《うち》に、ふとリツプ[#「リツプ」に傍線]とか云《い》ふ、英吉利《イギリス》の極《きは》めて剽輕《へうきん》な老爺《をやぢさん》と懇意《こんい》になつて、毎日々々《まいにち/\》面白《おもしろ》く可笑《をかし》く遊《あそ》んで居《を》る内《うち》、或《ある》日《ひ》の事《こと》其《その》老爺《をやぢさん》が作《こしら》へて呉《く》れた菱形《ひしがた》の紙鳶《たこ》を甲板《かんぱん》に飛《と》ばさんとて、頻《しきり》に騷
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