|團《だん》の貴女《きぢよ》神士《しんし》ははやピアノ臺《だい》の側《そば》に走《はし》り寄《よ》つて、今《いま》や靜《しづ》かに其處《そこ》を降《くだ》らんとする春枝夫人《はるえふじん》を取卷《とりま》いて、あらゆる讃美《さんび》の言《ことば》をもつて、此《この》珍《めづ》らしき音樂《おんがく》の妙手《めうしゆ》に握手《あくしゆ》の譽《ほまれ》を得《え》んと※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]《ひし》めくのである。かの鵞鳥《がてう》の聲《こゑ》の婦人《ふじん》は口《くち》あんぐり、眞赤《まつか》になつて眼《め》を白黒《しろくろ》にして居《を》る、定《さだ》めて先刻《せんこく》の失言《しつげん》をば後悔《こうくわい》して居《を》るのであらう。此《この》夜《よ》のピアノの響《ひゞき》は、今《いま》も猶《な》ほ私《わたくし》の耳《みゝ》に殘《のこ》つて、※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、66−7]去《くわこ》の出來事《できごと》の中《うち》で最《もつと》も壯快《さうくわい》な事《こと》の一つに數《かぞ》へられて居《を》るのである。
其他《そのほか》面白《おもしろ》い事《こと》も隨分《ずゐぶん》あつた。音樂會《おんがくくわい》の翌々日《よく/\じつ》の事《こと》で、船《ふね》は多島海《たたうかい》の沖《おき》にさしかゝつた時《とき》、多《おほく》の船客《せんきやく》は甲板《かんぱん》に集合《あつま》つて種々《いろ/\》の遊戯《あそび》に耽《ふけ》つて居《を》つたが、其内《そのうち》に誰《たれ》かの發起《はつき》で徒競走《フートレース》が始《はじま》つた。今日《こんにち》、世界《せかい》で最大《さいだい》な船《ふね》は長《なが》さ二百三十ヤード、即《すなは》ち町《ちやう》にして二|町《ちやう》を超《こ》ゆるものもある、本船《ほんせん》の如《ごと》きも其《その》一で、競走《レース》は前部甲板《ぜんぶかんぱん》から後部甲板《こうぶかんぱん》へと、大約《おほよそ》三百ヤード許《ばかり》の距離《きより》を四|回《くわい》往復《わうふく》するのであるが優勝者《チヤンピオン》には乘組《のりくみ》の貴婦人連《レデイれん》から美《うる》はしき贈物《おくりもの》があるとの事《こと》で、英人《エイじん》、佛人《フツじん》、獨逸人《ドイツじん》、其他《そのほか》伊太利《イタリー》、瑞西《スイツツル》、露西亞等《ロシヤとう》の元氣《げんき》盛《さか》んなる人々《ひと/″\》は脛《すね》を叩《たゝ》いて跳《をど》り出《で》たので、私《わたくし》もツイ其《その》仲間《なかま》に釣込《つりこ》まれて、一|發《ぱつ》の銃聲《じうせい》と共《とも》に無《む》二|無《む》三に驅《かけ》つたが、殘念《ざんねん》なるかな、第《だい》一|着《ちやく》に决勝點《けつしようてん》に躍込《をどりこ》んだのは、佛蘭西《フランス》の豫備海軍士官《よびかいぐんしくわん》とか云《い》へる悽《すさ》まじく速《はや》い男《をとこ》、第《だい》二|着《ちやく》は勤務《きんむ》のため我《わが》日本《につぽん》へ向《むか》はんとて此《この》船《ふね》に乘組《のりく》んだ伊太利《イタリー》の公使館《こうしくわん》附《づき》武官《ぶくわん》の海軍士官《かいぐんしくわん》、私《わたくし》は辛《からう》じて第《だい》三|着《ちやく》、あまり面白《おもしろ》くないので、今度《こんど》は一つ日本男兒《につぽんだんじ》の腕前《うでまへ》を見《み》せて呉《く》れんと、うまく相撲《すまう》の事《こと》を發議《はつぎ》すると、忽《たちま》ち彌次連《やじれん》は集《あつ》まつて來《き》た。彌次連《やじれん》の其中《そのなか》から第《だい》一に私《わたくし》に飛掛《とびかゝ》つて來《き》た一|人《にん》は、獨逸《ドイツ》の法學士《はふがくし》とかいふ男《をとこ》、隨分《ずゐぶん》腕力《わんりよく》の逞《たく》ましい人間《にんげん》であつたが、此方《こなた》は多少《たせう》柔道《じうだう》の心得《こゝろえ》があるので、拂腰《こしはらひ》見事《みごと》に極《きま》つて私《わたくし》の勝《かち》、つゞいて來《く》る奴《やつ》、四人《よにん》まで投《な》げ倒《たふ》したが、第《だい》五|番目《ばんめ》にのつそりと現《あら》はれて來《き》た露西亞《ロシヤ》の陸軍士官《りくぐんしくわん》、身《み》の丈《た》け六|尺《しやく》に近《ちか》く阿修羅王《あしゆらわう》の荒《あ》れたるやうな男《をとこ》、力任《ちからまか》せに私《わたくし》の兩腕《りよううで》を握《にぎ》つて一振《ひとふり》に振《ふ》り飛《と》ばさんず勢《いきほひ》、私《わたくし》も之《これ》には頗《すこぶ》る閉口《へいこう》したが、どつこひ待《ま》てよ、と
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