かう》航海《かうかい》だと語《かた》つた程《ほど》で、從《したがつ》て其間《そのあひだ》には格別《かくべつ》に記《しる》す程《ほど》の事《こと》もない。たゞ二つ三つ記臆《きおく》に留《とゞま》つて居《を》るのは斯《かゝ》る平和《へいわ》の間《あひだ》にも不運《ふうん》の神《かみ》は此《この》船《ふね》の何處《いづこ》にか潜伏《ひそ》んで居《を》つたと見《み》え、船《ふね》のメシナ[#「メシナ」に二重傍線]海峽《かいけう》を出《いで》んとする時《とき》、一人《ひとり》の船客《せんきやく》は海中《かいちゆう》に身《み》を投《な》げて無殘《むざん》の最後《さいご》を遂《と》げた事《こと》と、下等船客《かとうせんきやく》の一《いち》支那人《シナじん》はまだ伊太利《イタリー》の領海《りやうかい》を離《はなれ》ぬ、頃《ころ》より苦《くる》しき病《やまひ》に犯《おか》されて遂《つひ》にカンデイア[#「カンデイア」に二重傍線]島《じま》とセリゴ[#「セリゴ」に二重傍線]島《じま》との間《あひだ》で死亡《しぼう》した爲《ため》に、海上《かいじやう》の規則《きそく》で船長《せんちやう》以下《いか》澤山《たくさん》の船員《せんゐん》が甲板《かんぱん》に集《あつま》つて英國《エイこく》の一|宣教師《せんけうし》の引導《いんだう》の下《もと》に其《その》死骸《しがい》をば海底《かいてい》に葬《はうむ》つてしまつた事《こと》と、是等《これら》は極《きは》めて悲慘《ひざん》な出來事《できごと》であるが、他《ほか》に愉快《ゆくわい》な事《こと》も二つ三つ無《な》いでもない。
何處《どこ》でも長《なが》い航海《かうかい》では船中《せんちゆう》の散鬱《うさばらし》にと、茶番《ちやばん》や演劇《えんげき》や舞踏《ぶたう》の催《もようし》がある。殊《こと》に歐洲《をうしう》と東洋《とうやう》との間《あひだ》は全世界《ぜんせかい》で最《もつと》も長《なが》い航路《かうろ》であれば斯《かゝ》る凖備《じゆんび》は一|層《そう》よく整《とゝな》つて居《を》る。此《この》弦月丸《げんげつまる》にも屡《しば/\》其《その》催《もようし》があつて私等《わたくしら》も折々《をり/\》臨席《りんせき》したが、或《ある》夜《よ》の事《こと》、電燈《でんとう》の光《ひかり》眩《まば》ゆき舞踏室《ぶたうしつ》では今夜《こんや》は珍《めづ》らしく音樂會《おんがくくわい》の催《もよう》さるゝ由《よし》で、幾百人《いくひやくにん》の歐米人《をうべいじん》は老《おい》も若《わか》きも其處《そこ》に集《あつま》つて、狂氣《きやうき》のやうに騷《さは》いで居《を》る。禿頭《はげあたま》の佛蘭西《フランス》の老紳士《らうしんし》が昔日《むかし》の腕前《うでまへ》を見《み》せて呉《く》れんとバイオリン[#「バイオリン」に傍線]を採《と》つて彈《ひ》くか彈《ひ》かぬに歌《うた》の曲《きよく》をハツタと忘《わす》れて、頭《あたま》撫《な》で/\罷退《まかりさが》るなど隨分《ずゐぶん》滑※[#「(禾+尤)/上/日」、62−10]的《こつけいてき》な事《こと》もあるが、大概《たいがい》は腕《うで》に覺《おぼ》えの歐米人《をうべいじん》の事《こと》とて、いづれも得意《とくい》の曲《きよく》を調《しら》べては互《たがひ》に天狗《てんぐ》の鼻《はな》を高《たか》めて居《を》る。私《わたくし》が春枝夫人《はるえふじん》と此《この》席《せき》に列《つらな》つた時《とき》には丁度《ちやうど》ある年増《としま》の獨逸《ドイツ》婦人《ふじん》がピアノの彈奏中《だんそうちゆう》であつたが、此《この》婦人《ふじん》は極《きは》めて驕慢《けうまん》なる性質《せいしつ》と見《み》えて、彈奏《だんそう》の間《あひだ》始終《しゞう》ピアノ臺《だい》の上《うへ》から聽集《きゝて》の顏《かほ》を流盻《ながしめ》に見《み》て、折《をり》ふし鵞鳥《がてう》のやうな聲《こゑ》で唱《うた》ひ出《だ》す歌《うた》の調《しら》べは左迄《さまで》妙手《じやうず》とも思《おも》はれぬのに、唱《うた》ふ當人《たうにん》は非常《ひじやう》の得色《とくしよく》で、やがて彈奏《だんそう》が終《をは》ると小鼻《こばな》を蠢《うごめ》かし、孔雀《くじやく》のやうに裳《もすそ》を飜《ひるが》へして席《せき》に歸《かへ》つた。此《この》次《つぎ》は如何《いか》なる人《ひと》が出《で》るだらうと、私《わたくし》は春枝夫人《はるえふじん》と語《かた》りながら一|方《ぽう》の倚子《ゐす》に倚《よ》りて眺《なが》めて居《を》つたが、暫時《しばらく》は何人《たれ》も出《で》ない、大方《おほかた》今《いま》の鵞鳥聲《がてうごゑ》の婦人《ふじん》の爲《た》めに荒膽《あらぎも》を※[#「抜」
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