をよせて倩々《つら/\》と考《かんが》へた。昨日《きのふ》までは經廻《へめぐ》る旅路《たび》の幾《いく》千|里《り》、憂《う》き時《とき》も樂《たの》しき時《とき》も語《かた》らふ人《ひと》とては一人《ひとり》もなく、晨《あした》に明星《めうぜう》の清《すゞ》しき光《ひかり》を望《のぞ》み、夕《ゆふべ》に晩照《ゆふやけ》の華美《はなやか》なる景色《けしき》を眺《なが》むるにも只《たゞ》一人《ひとり》、吾《われ》と吾心《わがこゝろ》を慰《なぐさ》むるのみであつたが、昨日《きのふ》は圖《はか》らずも天外《てんぐわい》萬里《ばんり》の地《ち》で我《わが》同胞《どうほう》にめぐり逢《あ》ひ、恰《あだか》も天《てん》のなせるが如《ごと》き奇縁《きえん》にて今《いま》は優美《やさし》き春枝夫人《はるえふじん》、可憐《かれん》なる日出雄少年等《ひでをせうねんら》と同《おな》じ船《ふね》に乘《の》り同《おな》じ故國《ふるさと》に皈《かへ》るとは何《なに》たる幸福《しあはせ》であらう。今度《こんど》此《この》弦月丸《げんげつまる》の航海《かうかい》には乘客《じやうきやく》の數《かず》は五百|人《にん》に近《ちか》く船員《せんゐん》を合《あは》せると七百|人《にん》以上《いじやう》の乘組《のりくみ》であるが、其中《そのなか》で日本人《につぽんじん》といふのは夫人《ふじん》と少年《せうねん》と私《わたくし》との三|名《めい》のみ、此《この》不思議《ふしぎ》なる縁《えん》に結《むす》ばれし三人《みたり》は之《これ》から海原《うなばら》遠《とほ》く幾千里《いくせんり》、ひとしく此《この》船《ふね》に運命《うんめい》を托《たく》して居《を》るのであるが、若《も》し天《てん》に冥加《めうが》といふものが在《あ》るならば近《ちか》きに印度洋《インドやう》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−3]《すぐ》る時《とき》も支那海《シナかい》を行《ゆ》く時《とき》にも、今日《けふ》の如《ごと》く浪路《なみぢ》穩《おだや》かに、頓《やが》て相《あひ》共《とも》に※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−4]去《くわこ》の平安《へいあん》を祝《いは》ひつゝ芙蓉《ふよう》の峯《みね》を仰《あふ》ぐ事《こと》が出來《でき》るやうにと只管《ひたすら》天《てん》に祈《いの》るの他《ほか》はないのである。
ネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]港《かう》から海路《かいろ》數《すう》千|里《り》、多島海《たたうかい》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−7]《す》ぎ、地中海《ちちゆうかい》に入《い》り、ポートセツト[#「ポートセツト」に二重傍線]にて石炭《せきたん》及《およ》び飮料水《ゐんりようすゐ》を補充《ほじう》して、それより水先案内《みづさきあんない》をとつてスエス[#「スエス」に二重傍線]の地峽《ちけう》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−9]《す》ぎ、往昔《むかし》から世界《せかい》第《だい》一の難所《なんしよ》と航海者《かうかいしや》の膽《きも》を寒《さむ》からしめた、紅海《こうかい》一|名《めい》死海《しかい》と呼《よ》ばれたる荒海《あらうみ》の血汐《ちしほ》の如《ごと》き波濤《なみ》の上《うへ》を駛《はし》つて、右舷《うげん》左舷《さげん》より眺《なが》むる海上《かいじやう》には、此邊《このへん》空氣《くうき》の不思議《ふしぎ》なる作用《さよう》にて、遠《とほ》き島《しま》は近《ちか》く見《み》え、近《ちか》き船《ふね》は却《かへつ》て遠《とほ》く見《み》え、其爲《そのため》に數知《かずし》[#ルビの「かずし」は底本では「かずす」]れず不測《ふそく》の禍《わざはひ》を釀《かも》して、此《この》洋中《やうちゆう》に難破《なんぱ》せる沈沒船《ちんぼつせん》の船體《せんたい》は既《すで》に海底《かいてい》に朽《く》ちて、名殘《なごり》の檣頭《しやうとう》のみ波間《はかん》に隱見《いんけん》せる其《その》物凄《ものすご》き光景《くわうけい》を吊《とふら》ひつゝ、進《すゝ》み進《すゝ》んで遂《つひ》に印度洋《インドやう》の海口《かいこう》ともいふ可《べ》きアデン[#「アデン」に二重傍線]灣《わん》に達《たつ》し、遙《はる》かにソコトラ[#「ソコトラ」に二重傍線]島《じま》を煙波《えんぱ》縹茫《へうぼう》たる沖《おき》に望《のぞ》むまで、大約《たいやく》二|週間《しうかん》の航路《かうろ》は毎日《まいにち》毎日《まいにち》天氣《てんき》晴朗《せいらう》で、海波《かいは》平穩《おだやか》で、十|數年《すうねん》來《らい》浪《なみ》を枕《まくら》に世《よ》を渡《わた》る水夫《すゐふ》共《ども》も未曾有《みそういう》の好《
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