客《いつとうせんきやく》でもなく、二等船客《にとうせんきやく》でもなく、實《じつ》に此《この》船《ふね》の最後《さいご》まで踏止《ふみとゞま》る可《べ》き筈《はづ》の水夫《すいふ》、火夫《くわふ》、舵手《かぢとり》、機關手《きくわんしゆ》、其他《そのほか》一團《いちだん》の賤劣《せんれつ》なる下等船客《かとうせんきやく》で、自己《おのれ》の腕力《わんりよく》に任《まか》せて、他《た》を突除《つきの》け蹴倒《けたを》して、我先《われさき》にと艇中《ていちう》に乘移《のりうつ》つたのである。
『あゝ、何《なん》たる醜態《しうたい》ぞ。」と私《わたくし》はあまりの事《こと》に撫然《ぶぜん》とした。春枝夫人《はるえふじん》は私《わたくし》の後方《うしろ》に、愛兒《あいじ》をしかと抱《いだ》きたる儘《まゝ》、默然《もくねん》として言《ことば》もない、けれど流石《さすが》に豪壯《がうさう》なる濱島武文《はまじまたけぶみ》の妻《つま》、帝國軍人松島海軍大佐《ていこくぐんじんまつしまかいぐんたいさ》の妹君《いもとぎみ》程《ほど》あつて、些《ちつと》も取亂《とりみだ》したる姿《すがた》のなきは、既《すで》に其《その》運命《うんめい》をば天《てん》に任《まか》せて居《を》るのであらう。かゝる殊勝《けなげ》なる振舞《ふるまひ》を見《み》ては、私《わたくし》は猶《なほ》默《だま》つては居《を》られぬ。
『えゝ、無責任《むせきにん》なる船員《せんいん》! 卑劣《ひれつ》なる外人《くわいじん》! 海上《かいじやう》の規則《きそく》は何《なん》の爲《ため》ぞ。』と悲憤《ひふん》の腕《うで》を扼《やく》すと、夫人《ふじん》の淋《さび》しき顏《かほ》は私《わたくし》に向《むか》つた、沈《しづ》んだ聲《こゑ》で
『いえ、誰人《どなた》も命《いのち》の助《たす》かりたいのは同《おな》じ事《こと》でせう。』と言《い》つて、瞳《ひとみ》を轉《てん》じ
『でも、あの樣《やう》に澤山《たくさん》乘《の》つては端艇《たんてい》も沈《しづ》みませうに。』といふ、我身《わがみ》の危急《あやうき》をも忘《わす》れて、却《かへ》つて仇《あだ》し人《ひと》の身《み》の上《うへ》を氣遣《きづか》ふ心《こゝろ》の優《やさ》しさ、私《わたくし》は聲《こゑ》を勵《はげ》まして
『夫人《おくさん》、其樣《そん》な事處《ことどころ》で
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